に夫妻の金銭問題と見えたのは、事業と一家の経済との区別をたてたのを悪くとったのではあるまいか? 彼女も女である。ことに気は剛でも身体《からだ》は繊弱《かよわ》い。心の労《つか》れに撓《う》むこともあったであろう。そういうおり夫の果しもない事業慾に――それもありふれた事をきらう大懸《おおがか》りの仕事に、何もかも投じてしまう癖《くせ》のあるのを知って、せめて後顧《こうこ》の憂《うれ》いのないようにと考えたのではなかろうか。それはあの勝気な女性にも、長い間の辛労を、艱難《かんなん》困苦を思出すと、もう欠乏には堪えられそうもないと思うような、彼女の年が用意をさせたのでもあろうか――
川上が亡《なく》なるすこし前の事であった。貞奴夫婦を箱根で見かけた時は、貞奴は浴衣がけで宮の下から塔の沢まで来た。その折など決して彼女が、自分の財袋《たくわえ》だけ重くしている人とは見られなかった。彼女は夫のためにはいかにも真率《しんそつ》で、赤裸々でつくしていたと、わたしは思っている。我儘《わがまま》で自我のつよい芸術家同士は、ときに反感の眼をむいて睨《にら》みあったことがあったかも知れない、あるいは川上の晩年には互いの心に反《そ》りが出て、そういう日が多かったかも知れない。けれどもわたしは貞奴を貞婦だと思う。
気性もの、意地で突っ張ってゆく、何処までも弱い涙を見せまいとする女――そういう人に貞奴も生れついているようだ。そうした生れだちのものは損なのは知れている。女性は気弱く見える方が強靭《きょうじん》だ。しっかりと自分だけを保護して、そして比較的安全に他人の影にかくれて根強く棲息《せいそく》する。強気のものは我に頼んで、力の折れやすいのを量《はか》らずに一気に事を為《な》し遂げようとする。ことに義侠心と同情心の強いものがより多く一本気で向う見ずである。
わたしは自分の気質からおして、何でもかでもそうだと貞奴をこの鋳型《いがた》に嵌《は》めようとするのではないが、彼女も正直な負けずぎらいであったろうと思っている。そしてそういう気質のものが胸算用をしいしい川上を助けたとはどうしても思われない。彼女は強い、それこそ、身を炎にしてしまいそうな自分自身の信仰を傾け尽して、そこに幾分かの好奇心を交えて、夫川上の事業を助けたのであろう。そこにはまた、彼女の生れた血が、伝統的義侠と物好《ものずき》な江戸人の特色を多く含んでいた事や、気負い肌《はだ》の養母に育てられた事や、芝居と小説の架空人物に自らをよそえた、偽りの生活を享楽している中に住んで、不安もなく、むしろ面白おかしく日を送っていた若き日のことであるゆえ、彼女は自分というものの力が、夫にとって、そのまた新らしい事業にとって、どれほど有力なものであるかと知ったときに、全く献身的な、多少冷静に考えるものには、無鉄砲な遊戯と見えるほどな冒険も敢《あえ》てしたのであろう。そうした人が金銭のことから他人がましくなろうはずはない。もしなったとすれば、それは夫妻の内部から破綻《はたん》が、表面にまで及ぼしてきて、物質関係まで他人がましくなったのだと思わなければならない。その折はすでに愛情は冷却して、そのくせ女の方は、あまり高価な、かけがえのない犠牲を払って来た若き日の、あの尊《とう》とかりし我熱情の、徒《いたず》らに消耗された事を思い嘆くあまりの、焦燥から来た我執とみなければなるまい。
けれど、もし仮にそうであったとすれば貞奴の思違いであった。彼女は夫を助けたのであろう。夫のために犠牲として、夫の事業の傀儡《かいらい》となったのであろう。けれどそれは最初のことで、運命は転換した。演劇に新派を建立し、飜訳劇に彼地の風俗人情、思想をいちはやく紹介した川上の事業はとにかく成功した。かげでこそオッペケペなぞと旗上げ当時を回想して揶揄《やゆ》するものもあったが、演劇界に新たな一線を劃《かく》すだけのことを川上はやり通した。そして、それと同時に、川上の成功に比して劣らぬ地歩を貞奴もしめたのである。艱難《かんなん》に堪え得た彼女の体が生みだした成功と名誉である。けれど、けれど、けれど、其処に川上という具眼者がなくて彼女の今日があったであろうか。
いえ、それは誰れよりもよく、当の貞奴が知っている。彼女は一も川上、二も川上と、夫を立てていた。負けぬ気の彼女も川上には心服していた。それはどのような英雄、豪傑にも裏はある。美点も弱点も、妻と夫ほど知り尽すものがあろうか。瓦《かわら》を珠《たま》とおもう愚者でないかぎり、他人には傑《えら》い夫も、妻は物足らぬ底《そこ》を知るものだ。貞奴と川上との間だけがそれらの外とはいえない。それですら貞奴は夫を傑いと思っていた。一面には罵《ののし》りながら、一面には敬していたに相違ない。
罵るとは?
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