いて駈《かけ》付けた門弟たちは、師の病体《からだ》を神戸にうつすと同時に「楠公《なんこう》父子桜井の訣別《けつべつ》」という、川上一門の手馴《てな》れた史劇を土地の大黒座で開演した。それが土地の気受けに叶《かな》い、神戸における楠公様の劇《しばい》である上に、川上の事件は当時の新聞が詳細に記述したので、人気は弥《いや》がうえにと添い、入院費用はあまるほど得られた。川上の恢復《かいふく》も速《すみや》かであった。とはいえ、川上は健康を恢復すれば、またも行方《ゆくえ》定めぬ波にまかせて、海の旅に出ると言ってきかなかった。その折、近くに開かれる仏蘭西《フランス》の博覧会へ日本劇を持込んではとの相談が来た。
それこそ、新生活を開拓しよう、無人島へでもよいから行きつこうと思っていた夫婦には、渡りに船の相談なので、一も二もなく渡航と定め、川上一座一行廿一人は結束して立った。婦人はその中にたった二人、いうまでもなく一人は奴で、一人は川上の姪《めい》の鶴子(在米活動俳優として名ある青木鶴子、後に早川|雪洲《せっしゅう》の妻)で、奴は単に見物がてらの随行、鶴子は彼地で修業するのが目的であった。
亜米利加《アメリカ》のサンフランシスコに一行は上陸した。仲に這入《はい》った人の言葉ばかりを真《ま》に受けて、上陸後四日間ばかりをうやむや[#「うやむや」に傍点]に過してしまうと、仲人《ちゅうにん》は逃亡してしまった。知らぬ間に川上の名義で借入れられた莫大《ばくだい》な借金が残っているばかり、約束になっているといった劇場へいって見れば釘附《くぎづ》けになって閉《とざ》されている。開演しさえすればとの儚《はか》ないたのみに無理算段を重ねていた一行は、直に糊口《ここう》にも差支えるようになり、ホテルからも追出されるみじめさ、行きどころない身は公園のベンチに眠り、さまよい、病犬《やみいぬ》のように蹌々踉々《そうそうろうろう》として、僅《わず》かの買喰《かいぐ》いに餓《うえ》をしのぐよりせんすべなく、血を絞る苦しみを忍んで、漸くボストンのカリホルニア座に開演して見たものの、乞食《こじき》の群れも同様に零落《おちぶ》れた俳優《やくしゃ》たち、それがなんで人気を呼ぼう、当《あた》ろうはずがなかった。窮乏はいやが上にせまる、何処の劇場でも対手《あいて》にはしてくれない。ことに貧弱きわまる男優が女形《おやま》であるときいては、まるで茶番のように笑殺され、見返られもしなかった。
一行は十月の異国の寒空に、幾日かの断食《だんじき》を修行し、野宿し、まるで聖徒の苦行のような辛酸を嘗《な》めた。
シカゴ、ワシントンストリートの、ライリリック座の座主の令嬢こそ、この哀れな、餓死に瀕《ひん》した一行の救い主であった。ポットン令嬢は日本劇に趣味をもっていたので、父親を納得させて川上一行を招くことにした。座主はお嬢さんの酔興を許しはしたが、算盤《そろばん》をとっての本興行は打てぬので、広告などは一切しないという約束のもとに、とにかく救いあげられた。
座主の方で広告はしないとはいえ、開《あ》けるからには一人にでも多く見物してもらいたいのが人情である。そこでどんなに窮した場合にも残しておいた、舞台で着る衣服|甲冑《かっちゅう》に身を装い、おりから降りしきる雪の辻々、街々《まちまち》を練り歩いて、俳優たちが自ら広告した。絶食しつづけた彼れらが、重い鎧《よろい》を着て、勇気|凛然《りんぜん》たる顔附きをして、雪の大路を濶歩《かっぽ》するその悲惨なる心根――それは実際の困窮を知らぬものには想像もつきかねるいたましさである。舞台に立って、児島高徳《こじまたかのり》に投げられた雑兵《ぞうひょう》が、再び起上って打向ってくるはずなのが、投げられたなりになってしまったほど、彼らは疲労|困憊《こんぱい》の極に達していた。百|弗《ドル》の報酬を得てホテルに駈込《かけこ》んだ時には、食卓にむかった誰れもかれも、嬉し泣に、潸々《さめざめ》としないものはなかったという。
一座はその折、女優がなかったために苦い経験をしたので、奴は見兼ねてその難儀を救った。義理から、人情から、それまで一度も舞台を踏んだことのなかった身が一足飛びに、勝《すぐ》れた多くの女優が、明星と輝く外国において、貧乏な旅廻りの一座のとはいえ、一躍して星女優《プリマドンナ》となったのである。しかし、暫くの間はほんの田舎《いなか》廻りにしか過ぎなかったが、かえってそれは、マダム貞奴としての要素をつくる準備となったといってもよいが、一行の難渋は実に甚だしかった。ボストンへ廻って来たおりには、心労の結果川上が病気に罹《かか》り、座員のうち二人まで異郷の鬼となってしまった。
「俺《おれ》が全快するまでは下手《へた》なことをするな。」
川上は病
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