てしまうと――ことに東京座などはだだっ広いのと入りがなかったので、涼しい風が遠慮がなさすぎるほど吹入って、納涼気分に満ちた芝居小屋であった。川上座は帝劇と有楽座をまぜた造り方であったので、その時分の人たちにはひどく勝手違いのものであったが、開場式に呼ばれたものは川上の手腕に誰れも敬服しあっていた。一千にあまる来賓はすべての階級を網羅《もうら》し、その視線の悉《ことごと》くそそがれている舞台中央には、劇場主川上音二郎が立って、我国新派劇の沿革から、欧米諸国の劇史を論じ、満場の喝采《かっさい》をあびながら挨拶《あいさつ》を終った。その側《かたわら》に立つ奴の悦びはどれほどであったろう。共に労苦を分けた事業の一部は完成し、夫はこれほどの志望《こころざし》を担《にな》うに、毫《すこし》も不足のない器量人であると、日頃の苦悩も忘れ果て、夫の挨拶の辞《ことば》の終りに共に恭《うやうや》しく頭をさげると、あまりの嬉しさに夢中になっていたために、先日のいきさつから附髷《つけまげ》を用いている事なぞは忘れてしまい、音がして頭から落ちたもののあるのに気がつかなかった。湧上《わきあが》った笑い声に気がついて見ると、あにはからんやの有様、舞台監督は狼狽《あわて》て緞帳《どんちょう》をおろしてしまったが――
 赤面と心痛――開場式に頭が飛ぶとは――彼女は人知れずそれを心に病んだ。それが箴《しん》をなしてというのではないが、もとより無理算段でやった仕事だけに、たった一万円のために川上座は高利貸の手に奪《と》られなければならなかった。川上は同志を集めて歌舞伎座で手興行をした。わが持座《もちざ》を奪われぬために、他座で開演した心事《こころ》に同情のあった結果は八千円の利益を見、それだけは償却したが、残る四千円のために彼らは苦しみぬいた。
 そのころの住居が大森にある洋館の小屋《しょうおく》であった。金貸に苦しめられた川上が憤然として代議士の候補に立ったのは、高利貸《アイス》退治と新派劇の保護を標榜《ひょうぼう》したのであったが、東京市の有力な新聞紙――たしか『万朝報《よろずちょうほう》』であった――の大反対にあって非なる形勢となってしまった。
 それらが動機となって川上夫婦の短艇《ボート》旅行は思立たれた。厭世観と復讐《ふくしゅう》の念、そうした夫の心裏を読みつくして、死なば共にとの意気を示し、死ぬ覚悟で新しい生活の領土を開拓し、生命の泉を見出そうではないかと、勧めはげましたのは奴であった。妻の言葉に暗示を与えられてふるい立った川上は、失敗の記念となった大森の家を忍び出る用意をした。無謀といえば限りない無謀であるが、そのころはまだ郡司《ぐんじ》大尉が大川から乗出し、北千島の果《はて》までも漕附《こぎつ》けた短艇《ボート》探検熱はまだ忘れられていなかったから、川上の機智はそれに学んだのか、それともそうするよりほか逃出す考えがなかったのか、ともあれ、人生の嶮《けわ》しい行路に、行き悩んだ人は、陰惨たる二百十日の海に捨身の短艇《ボート》を漕出した。
 短艇日本丸は、暗の海にむかって、大森海岸から漕ぎだされた。ものずきな夫婦が、ついそこいらまで漕いでいってかえってくるのであろうと、気がついたものも思っていたであろうが、短艇の中には、必要品だけは入れてあった。寝具のかわりに毛布が運ばれてあった。とはいえ、幾日航海をつづけようとするのか、夫婦にも目あてはなかった。夫は漕ぐ、妻は万一のおりにはと覚悟をしていたが、夢中で、小山のような島があると見て漕ぎつけた場所は、横須賀軍港の軍艦富士の横っぱらであった。
 鎮守府に呼ばれて訊問《じんもん》にあったが、全く何処とも知らず流されて来て、島かげを見付けてほっとした時に夜はほのぼのと明け、それが軍艦であった事を述べて許された。その上、咎《とが》められたのが好都合になって様々の好誼《こうぎ》をうけ、行手の海の難処なども懇篤に教え諭《さと》され、鄭重《ていちょう》なる見送りをうけて外洋《そとうみ》へと漕出した。

       四

 それからの、貞奴となるまでの記憶の頁は、涙の聯珠《れんじゅ》として、彼女の肉体が亡びてしまっても、輝く物語であろう。遠州|灘《なだ》の荒海――それはどうやらこうやら乗切ったが、掛川《かけがわ》近くになると疲労しつくした川上は舷《ふなばた》で脇腹《わきばら》をうって、海の中へ転《ころ》げおちてしまった。船は覆《くつがえ》ってしまった。奴は咄嗟《とっさ》にあるだけの力を出して、沈んだがまた浮上った夫を背にかけて、波濤《はとう》をきって根《こん》かぎり岸へ岸へと泳ぎつき、不思議に危難はのがれたが、それがもとで川上は淡路《あわじ》洲本《すもと》の旗亭《きてい》に呻吟《しんぎん》する身となってしまった。その報をき
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