いの床でそう言続けていたが、生活のためには言附けも背《そむ》かなければならなかった。それに為《な》すこともなく日を過しているのでは、悲境に、魂を食われてしまったような座員の団結も頼まれず、座員の元気を鼓舞するには劇場へ出演するに限ると、川上にかくれて貞奴が一座を引連れて出た。多分そのおりのことであろう。二人の座員の死んだのをどうする事も出来ぬので、土地の葬儀会社へ万端のことを頼んでおいた。劇場から帰ってきて見ると死者の髯《ひげ》は綺麗に剃《そ》られ、顔も美しく化粧され、髪も香水がつけて梳《くしけ》ずられてあり、新しい礼装をさせられて花輪を胸に載せ、柩《ひつぎ》の中に横たわらせられてあった。昨日まで食を共にし、生死もひとつにと堅い団結を組んできた一行のものは、その死者の姿を見ると、いかにも安易《やすやす》として清げなさまで、昨日までの陋苦《むさくる》しい有様とはあまり違って、立勝《たちまさ》って見ゆる紳士ぶりに、生きている方がよいか、死んだ者の方がよいかと妙な風な考えになって、頭をさげるばかりだったという話を聴いた。ことに死者の胸に組合せた手の指の爪《つめ》まで綺麗に磨かれてあったという事が、舞台で化粧をこそすれ、何事にも追われがちの不如意の連中には、指の爪のことまで繊細《デリケート》な気持ちを持っていられなかった人々が、感銘深くながめたという有様だった。
病床で川上が言続けていた、フランス・パリーの博覧会――そここそ、マダム貞奴の名声を赫々《かくかく》と昂《あ》げさせたものである。海外にあって最も輝かしかった三ツの歓喜、そのひとつは亜米利加《アメリカ》ワシントンで、故小村公使の尽力で、公使館夜会に招かれ、はじめて上流社会に名声を博し得たこと。またひとつは英吉利《イギリス》で上村大将に遇《あ》い、その力にてバッキンガム・パレスで、日本劇を御覧に入れたこと――たしかそのおり貞奴は道成寺《どうじょうじ》の踊の衣裳のままで御座席まで出たとおぼえている。――もひとつは、仏蘭西《フランス》のパリーで栗野公使の尽力により、一行が熱望しきっていた博覧会の迎えをうけたことである。この事こそ、ほんとに彼れらのためにも、日本劇のためにも前代未聞の出来ごとだったのだ。あらゆる天下の粋を集めた、芸術の源泉地仏蘭西パリーで、しかも、そのもろもろの美術、工芸、芸術品に篩《ふる》いをかけた博覧会々場でである。見る人もまた一国一都の人ばかりでなく、世界各地の人を網羅し尽している。その折に、その中で、耳目を聳《そば》だたして開演する事が出来ようとは、いかに熱望していたとはいえ、昨日までの田舎廻り、乞食芝居の座員には、万に一の希望も絶望であろうとされていたものが――加うるに日本劇川上一座の人気は、空前絶後とされ、夢想にも思いも浮べぬ、彼地の劇界を震撼させたものであった。なおその渡仏の前、ボストンで英吉利の名優ヘンリー・アーヴィングの「マーチャント・オブ・ベニス」が当ったのにかぶせて日本風に改作し「シャイロック」として上演したが、その入場券一|弗《ドル》が三弗五弗というふうに競上《せりあ》げられたというのは、もの珍らしさが手伝ったとはいえ大成功といわなければならない。かくして帰還した川上夫妻の胸には、仏蘭西の芸術家が重く見るオフシェ・ダカジメ三等勲章が燦《さん》としていた。
貞奴、貞奴、その名は日本でより海外に高く拡《ひろ》まった。名実《めいじつ》は川上一座でも、彼の一座でなく彼女の一座として歓迎された。一度帰朝した彼女らは陣容を改め、今度こそ目的のない漫然とした旅役者ではなく、光彩ある日本劇壇として明治三十四年に再び渡欧した。座長はいうまでもなく川上音二郎、星女優《スター》は貞奴、一座の上置きには故藤沢浅二郎、松本正夫、故土肥庸元(春曙)の諸氏のほかに、中村仲吉という女優(この優《ひと》は大柄の美人で旅廻りの女役者としてはほんとに芸も立派な旧派出の女であった)を加えて一行は廿六、七人であった。仏、英、露、独、西、伊、墺、匈の諸国を巡業し到る処で大歓迎をうけた。この興行から帰って来ると故国日本でも貞奴を歓迎して、化粧品には争ってマダム貞奴の仏蘭西土産であることを標榜《ひょうぼう》した新製品が盛んに売出され、広告にはそのチャーミングな顔が印刷されたりした。そして、川上の懇望によって、故郷の檜《ひのき》舞台に、諸外国の劇壇から裏書きされてきた、名誉ある演伎《えんぎ》を見せたのは、彼女が三十三歳の明治卅五年、沙翁《セクスピアー》の「オセロ」のデスデモナを、靹音《ともね》夫人という名にして勤めたのが、初舞台である。そして亡夫の七回忌にあたる大正六年十月、日本橋区久松町の明治座で女優生活十五年間の引退興行を催し、松井松葉氏によって戯曲となった、伊太利《イタリア》の歌劇「
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