、それは大家《たいけ》の箱入り娘と、好人物の父との賜物である。一本気な持前《もちまえ》も、江戸生れの下町のお嬢さんの所有でなければならない。其処へ養母によって仁侠《にんきょう》とたんか[#「たんか」に傍点]と、歯切れのよい娑婆《しゃば》っ気《け》を吹き込まれたのだ。そうした彼女は養母の後立《うしろだ》てで、十四歳のおりはもう立派な芳町の浜田屋小奴であった。
廿九歳で後家《ごけ》になってから猶更《なおさら》パリパリしていた養母の亀吉は、よき芸妓としての守らねばならぬしきたりを可愛い養娘《むすめ》であるゆえに、小奴に服膺《ふくよう》させねばならないと思っていた、その標語《モットー》――芸妓貞鑑《げいしゃていかん》は、みな彼女が実地にあって感じたことであり、また古来の名妓について悟った戒《いまし》めなのであった。彼女は言う。
「好い芸妓になるなら世話をして下さる方を一人と極《き》めて守らなけりゃいけない。それが芸妓の節操《みさお》というものだ。金に目がくれて心を売ってはいけない。けれども不粋《ぶすい》なことはいけない。芸妓は世間を広く知っていなければいけない。そして華やかな空気《なか》にいなければならない。地味な世界は他《ほか》に沢山ある。遊ばせるという要は窮屈ではいけない。だからお客よりも馬鹿で浮気な方がよい。理につんだ事が好きならば芸妓にはしゃがしてもらいにきはしない。そこで、浮気なのはよいが、慾に迷えば芸妓の估券《こけん》は下ってしまう。大事な客は一人と極《き》めてその人の顔をどこまでも立てなければならないかわりに、腕でやる遊びなら、威勢よくぱっとやって、自分の手から金を撒《ま》かなければいけない。堅気ではないのだからむずかしい意見はしない。だがよく覚えてお置き、遊びだということを……」
それは彼女が十六のおり、初代奴の名を継いで、嬌名いや高くうたわれるようになったおりの訓戒だ。賢なる彼女は、養母の教えを強《しか》と心に秘めていたが、間もなく時の総理大臣伊藤博文侯が奴の後立てであることが公然にされた。彼女はもう全く恐《こわ》いものはなしの天下になったのである。総理大臣の勢力は、現今《いま》よりも無学文盲であった社会には、あらゆる権勢の最上級に見なされて、活殺与奪の力までも自由に所持してでもいるように思いなされていた。そして伊藤公は――かなりな我儘《わがまま》をする人だというので憎み罵《のの》しるものもあればあるほど、畏敬《いけい》されたり、愛敬《あいきょう》があるとて贔屓《ひいき》も強かったり、ともかくも明治朝臣のなかで巍然《ぎぜん》とした大人物、至るところに艶材を撒《ま》きちらしたが、それだけ花柳界においても勢力と人気とを集中していた。奴は客としては当代第一たる人を見立てたのである。家には利者《きけもの》の亀吉という養母が睨《にら》んでいる。そして何よりも――眠れる獅子王《ししおう》の傍に咲く牡丹花《ぼたんか》のような容顔、春風になぶられてうごく雄獅子の髭《ひげ》に戯むれ遊ぶ、翩翻《へんぽん》たる胡蝶《こちょう》のような風姿《すがた》、彼女たちの世界の、最大な誇りをもって、昂然《こうぜん》と嬌坊第一にいた。
彼女も、そうした社会の女人《にょにん》ゆえ、早熟だった。彼女は遊びとしては、若手の人気ある俳優たちと交際《まじわ》っていた。そして彼女がもっとも好んだものは弄花《ろうか》――四季の花合せの争いであった。金《かね》びらのきれるのと、亀吉仕込みの鉄火《てっか》とが、姿に似合ぬしたたかものと、姐《ねえ》さん株にまで舌を巻かした。
奴の芸妓としての盛時は十七、八歳から廿一歳ごろまでであろう。
奴は芸妓時代から変りものであった。その時分ハイカラという新熟語《ことば》はなかったが、それに当てはめられる、生粋《きっすい》なハイカラであった。廿二、三年ごろには馬に乗り、玉突きをしたりしていた。髪もありあまるほどの濃い沢山なのを、洗髪の捻《ねじ》りっぱなしの束髪にして、白い小さな、四角な肩掛けを三角にかけていた。大磯の海水浴の漸《ようや》く盛りになった最中、奴の海水着の姿はいつでも其処に見られ、彼女の有名な水練《すいれん》は、この海でおぼえたのであった。
「奴が来ておりましたよ、大磯の濤竜館《とうりゅうかん》に……男見たような女ですね、お風呂《ふろ》で、四辺《あたり》にかまわないで、真白に石鹸《せっけん》をぬって、そこら中あぶくだらけにして……」
そんなことを、あるおり、某華族の愛妾が言っていたことがあった。その語《ことば》のなかには、すこし反感をふくんだ調子があったが、
「沢山な毛髪《かみのけ》のなんのって、お風呂の中でといて、ぐるぐると巻いているのを見ると、ほんとにその立派なことって……」
彼女の傍若無人であったことには
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