までは口にする人じゃなし、それに、ああすればこうと、ポンといえば灰吹きどころじゃなく心持ちを読んで、痒《か》ゆいところへ手の届くように、相手に口をきらせやしないから、そりゃまるで段違いだわ、人間がさ」
 それだけの言葉のうちに以前の寵妓《ちょうぎ》であって、かえり見られなくなった女と、貞奴との優劣がはっきりと分るような気がした。ほんの通り過ぎたにすぎないので、そのあとでも聴きたい話題があったかも知れない。
 順序として貞奴の早いころの生活についてすこし書かなければならない。わたしがまだ稽古本《けいこぼん》のはいったつばくろぐちを抱えて、大門通《おおもんどおり》を住吉町《すみよしちょう》まで歩いて通《かよ》っていたころ、芳町には抱《かか》え車《ぐるま》のある芸妓があるといってみんなが驚いているのを聞いた。わたしの家でも抱え車は父の裁判所行きの定用《じょうよう》のほかは乗らなかったので、何でも偉い事は父親が定木《じょうぎ》であった心には、なるほど偉い芸妓だと思った。一人は丁字《ちょうじ》屋の小照といい、一人は浜田屋の奴《やっこ》だと聞いていた。小照は後に伊井蓉峰《いいようほう》の細君となったお貞《てい》さんで、奴は川上のお貞《さだ》さんであった。浜田屋には強いおっかさんがいるのだという事もきいたが、わたしが気をつけて見るようになってからは、これもよい縹緻《きりょう》だった小奴という人の御神灯がさがっていて奴の名はなかった。そのうちにおなじ住吉町の、人形町通りに近い方へ、写真屋のような入口へ、黒塗の看板《サインプレート》がかかって、それには金文字で川上音二郎としるされてあった。そして其処が奴のいるうちだと知った。またその後、大森の、汽車の線路から見えるところへ小さな洋館が立って、白堊《はくあ》造りが四辺《あたり》とは異《ちが》っているので目にたった。それも川上の新らしい住居《すまい》である事を知った。それは鳥越《とりこえ》の中村座で川上の旗上げから洋行までの間のことである。

       三

 歴代の封建制度を破って、今日の新日本が生れ、改造された明治前後には、俊豪、逸才が多く生れ、育《はぐ》くまれ培《つちか》われつつあった時代である。貞奴は遅ればせに、またやや早めに生れて来たのである。生れたのは明治四年であった。そして後年、貞奴に盛名を与えるに、柱となり、土台となった人々が、みな適当な位置に配置されて、彼女の生れてくるのを待つ運命になっていた。
 もし彼女の生家が昔のままに連綿としていたならば、マダム貞奴の名は今日なかったであろう。新女優の祖《はは》川上貞奴とならずに堅気《かたぎ》な家の細君であって、時折の芝居見物に鬱散《うっさん》する身となっていたかも知れない。
 明治維新のことを老人たちは「瓦解《がかい》」という言葉をもって話合っている。「瓦解」とは、破壊と建設とをかねた、改造までの恐しい途程《みちのり》を言表《いいあら》わした言葉であろう。すべての旧慣制度が破壊された世の渦は、ことに江戸が甚しかった。武家に次いでは名ある大町人がバタバタと倒産した。お城に近い日本橋|両替町《りょうがえちょう》(現今の日本銀行附近)にかなりの大店《おおだな》であった、書籍と両替屋をかねて、町役人も勤めていた小熊という家もその数には洩《も》れなかった。家附《いえつき》の娘おたかは御殿勤めの美人のきこえたかく、入婿《いりむこ》の久次郎は仏さまと呼ばれるほどの好人物であった。そうした円満な家庭にも、吹きすさぶ荒い世風は用捨もなく吹込んで、十二人目にお貞と呼ぶ美しい娘が生れたころは、芝|神明《しんめい》のほとりに居を移して、書籍、薬、質屋などを営んでいた。しかも夫婦は贅沢《ぜいたく》を贅沢としらずに過して来た人たちであったので、娘たちを育てるにもかなり華美な生活をつづけていた。次第々々に家産が傾くと知りつつもそれを喰止《くいと》めるだけの力がなかった。終《つい》に窮乏がせまって来て十二人目の娘を手離すようになった。そしてお貞という娘が、他家で育てられるようになったのは彼女の七歳のときからで、養家は芳町の浜田屋という芸妓屋であった。
 浜田屋の亀吉は強情と一国《いっこく》と、侠《きゃん》で通った女であった。豪奢《ごうしゃ》の名に彼女は気負っていた。その女を養母とした七歳のお貞は、子供に似合わぬピンとした気性だったので、一寸《いっすん》のくるいもないように、養母と娘の心はぴったりと合ってしまった。その点はお貞の貞奴が、生《うみ》の親よりもよく養母の気性と共通の点があったといえる。
 とはいえ、そうした侠妓に養われ、天賦の素質を磨いたとはいえ、貞奴の持つ美質は、みんな善《よ》き父母の授けたものである。優雅、貞淑――そういう社会に育ったには似合わぬ無邪気さ
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