は余儀ない破目《はめ》から女優になったとはいえ、こうまでに成功してゆけば、どれからはいって歩んだとしても、道はひとつではないか、けれど、立脚地が違うゆえ、全生命を没頭しきれないで、ただ人気があったというだけにしてその後の研鑽|琢磨《たくま》を投げすててしまい、川上の借財をかえしたのと、立派な葬式を出したのと、石碑を建てたからよい引きしおであるというだけが、引退の理由なのが惜しい。最初から女優として立つ心はちっともなかったが、海外へ出て困窮のあまりになったのが動機であり、その後、断然|廃《や》めるつもりであったのを、夫や知己に説かれて日本の舞台へも立つようになったとはいえ、それではあまりこの女優の生涯が御他力《おたりき》で、独創の見地がなく、女優生活の長い間に自分の使命のどんなものかを、思いあたったおりがなかったのかと、全く惜まれる。ほんとにおしい事には、芸術最高説の幾分でも力説してきかせるような人が彼女の傍《そば》近くにいなかった事である。彼女には意地が何よりの命で、意気地《いきじ》を貫くという事がどれほど至難であり、どれほど快感であり、どれほど誇らしいものであるか知れないと思っているのであろう。功なり名《な》遂《と》げ、身《み》退《しりぞ》くという東洋風の先例にならい、女子としては有終の美をなしたと思ったであろう。貞奴という日本新劇壇の最初にもった女優には、何処までも劇に没頭してもらいたかった。あの人の塁《るい》を摩《ま》そうと目標にされるような、大女優にして残したかった。こういうのも貞奴の舞台の美を愛惜するからである。
貞奴は癇癪《かんしゃく》持ちだという。その癇癪が薬にもなり毒にもなったであろう。勝気で癇癪持ちに皮肉もののあるはずがない。それを亡《なき》川上の直系の門人たちが妙な感情にとらわれて、貞奴の引退興行の相談をうけても引受けなかったり、建碑のことでも楯《たて》を突きあっているのはあまり狭量ではあるまいか。かつて女優養生所に入所した、作家田村俊子さんは、貞奴を評して、子供っぽい可愛らしい、殊勝らしいところのある、初々《ういうい》しくも見えることのある地方の人の粘《ね》ばりづよい意地でなく、江戸っ子|肌《はだ》の勝気な意地でもつ人で、だから弱々と見えるときと、傍《そば》へも寄りつけぬほど強い時とがあって、
「愚痴をいうのは嫌いだからだまっているけれども、何につけて人というものは深い察しのないものね」
などいってる時は、ただ普通の、美しい繊弱《かよわ》い女性とより見えないが、ペパアミントを飲んで、気焔《きえん》を吐いている時なぞは、女でいて活社会に奮闘している勇気のほども偲《しの》ばれると言った。それでも芝居の楽《らく》の日に、興行中に贈られた花の仕分けなどして、片づいて空《から》になった部屋に、帰ろうともせず茫然《ぼうぜん》と、何かに凭《もた》れている姿などを見ると、ただなんとなく涙含《なみだぐ》まれるときがある。マダム自身もそんなときは、一種の寂寞《せきばく》を感じているのであろうともいった。
寂寞――一種の寂寞――気に驕《おご》るもののみが味わう、一種の寂寞である。それは俊子さんも味わった。その人なればこそ、盛りの人貞奴の心裡《しんり》の、何と名もつけようのない憂鬱《ゆううつ》を見逃《みの》がさなかったのであろう。
貞奴は、故|市川九女八《いちかわくめはち》を評して、
「あの人も配偶者が豪《えら》かったら、もすこし立派に世の中に出ていられたろうに、おしい事だ」
といったそうである。これもまた貞奴なればこそ、そうしみじみ感じたのだ。自分の幸福なのと、九女八の不幸なのとをくらべて見て、つくづくそう思ったのであろう。それから推しても貞奴が、どれほど夫を信じ、豪いと思っていたかが分る。川上にしても貞奴に対してつねに一歩譲っていた。貞奴もまた負けていなかったが、自分が思いもかけぬような名をなしたのも川上があっての事だ、夫が豪かったからである、みんなそのおかげだと敬していたと思える。そうした敬虔《けいけん》な心持ちは、彼女の胸にいつまでも摺《す》りへらされずに保たれていたゆえ、彼女がつくらずして可憐であり初々しいのだ。彼女の胸には恒《つね》に、少女心《おとめごころ》を失わずにいたに違いない。
わたしはいつであったか歌舞伎座の廊下で、ふと耳にした囁《ささや》きをわすれない。それは粋《いき》な身なりをしている新橋と築地《つきじ》辺の女人らしかったが、話はその頃|噂立《うわさだ》った、貞奴対福沢さんの問題らしかった。その一人の年増《としま》が答えるところが耳にはいった。
「それは違うわ、先《せん》の妾《ひと》はああした女《ひと》でしょう。貞奴さんはそうじゃない、あの人のことだから、お宝のことだって、忍耐《がまん》が出来る
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