人の舞台が、こうまで可憐であろうとは、ほんとに見ぬ人には信じられないほどである。それはわたしの贔屓目《ひいきめ》がそう言わせるのではない。彼地の最高の劇評家にも認められた。アーサー・シモンズも著書の頁のいく部分を彼女のために割《さ》いた。
 それは彼女の過去の辛苦が咲かせた花であろう。外国へ彼女が残して来た日本女の印象が、決してはずかしくないものであったことだけでも、後から出たものは感謝しなければならない。後《のち》のものは時代の要求によって生れて来たとはいえ、彼女の成功を見せた事が刺戟《しげき》になっている事はいうまでもない。彼女が海の外へ出ていてした仕事も、帰朝《かえ》って来て当時の人に目新しい扮装ぶりを見せたのも、現今の女優のまだ赤ん坊であったころのことである。策士川上が貞奴の名を揚げるために種々《いろいろ》と、世人の好奇心をひくような物語《ローマンス》を案出するのであろうとはいわれたが、彼女の技芸に、姿色《ししょく》に、魅惑されたものは多かった。それは全く、彼女によって示された、「祖国」のヒロインや「オセロ」のデスデモナなぞは、今日の日本劇壇にもちょっと発見することが困難であろうと思うほど立派なもので、ありふれた貧弱なものではなかった。最初の女優を迎えた物珍らしさと、憧憬《どうけい》する泰西の劇をその美貌の女優を通して見るという事が、どれほど若い者の心を動かしたか知れなかった。京都で大学生が血書をして切《せつ》ない思いのあまりを言い入れたとかいうような事は、貞奴の全盛期にはすこしも珍らしい出来ごとではない。そんな事に耳をかしていたならば、おそらくはも一人|別《べつ》に彼女というものがあって、専念それらの手紙や会見の申込みに一々気の毒そうな顔をして断りをいったり書いたり、謝《あやま》ったり、悦んだりしていなければならないであろう。文壇の人では秋田雨雀《あきたうじゃく》氏が貞奴心酔党の一人で、その当時|早稲田《わせだ》の学生であった紅顔の美少年秋田は、それはそれは、熱烈至純な、貞奴讃美党であった。いまでもその話が出れば秋田氏はごまかさずに頷《うなず》く、
「まったく病気のように心酔していたのですね、どんな事をしても見ないではいられなかったのだから」
 はっきりとそう言って、古き思出もまた楽しからずやといったさまに、追憶の笑《えみ》をふくまれる。わたしの眼にも美しかった貞奴のまぼろしが浮みあがって、共に微笑しつつ、秋田さんの眼にもまだこの幻は消えぬのであろうと思うと、美の力の永遠なのと、芸術の力の支配とに驚かされる。

 その話は今から十五、六年前、明治卅五、六年のことかと思う。第二回目の渡航をして西欧諸国を廻って素晴らしい人気を得た背景をもって、はじめて日本の劇壇へ貞奴が現われたころのことであった。独逸《ドイツ》では有名な学者ウィルヒョウ博士が、最高の敬意を表して貞奴の手に接吻《せっぷん》をしたとか「トスカ」や「パトリ」の作者であるサルドーが親しく訪れたという事や、露西亜《ロシア》の皇帝からは、ダイヤモンド入りの時計を下賜《かし》されたという事や、いたる土地《ところ》の大歓迎のはなしや、ホテルの階段に外套《がいとう》を敷き、貞奴の足が触れたといって、狂気して抱《かか》えて帰ったものがあったことや、貞奴の旅情をなぐさめるためにと、旅宿の近所で花火をあげさせてばかりいた男の事や、彼女の通る街筋《まちすじ》の群集が、「奴《ヤッコ》、奴《ヤッコ》」と熱狂して馬車を幾層にも取廻《とりま》いてしまったという事や、いたるところでの成功の噂が伝わって、人気を湧《わき》立たせた。正直な文学青年の秋田氏が、美神《みゅうず》が急に天下《あまくだ》ったように感激したのは当り前だった。そしてまた出現した貞奴も観衆の期待を裏切らなかったのであったから、人気はいやがうえに沸騰し、熱狂の渦をまかせた。そのおり可哀そうな青森の片田舎から出て来ていた貧乏な書生さん秋田は、何から何までも芝居の場代《ばだい》のために売らなければならなかったのだ。場代といっても、桟敷《さじき》や土間の一等観覧席ではない、ほんの三階の片隅に身をやっと立たせるにすぎなかったが、それでも毎日となれば書生の身には大変なことであった。すっかり貞奴熱に昂奮《こうふん》してしまった少年秋田は、机と書籍の幾冊かと、身につけていた着物だけは残したがあとはみんな空《むな》しくしてしまった。しまいには部屋の畳の表までむしりとって売払い、そして毎日感激をつづけていたとさえ言われる。
 こんな清教徒《ピュリタン》の渇仰《かつごう》を、もろもろの讃詞《さんじ》と共に踏んで立った貞奴の得意さはどれほどであったろう。それにしても彼女におしむのは、彼女が芸を我生命として目覚め、ふるいたたなかった遺憾さである。それ
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