れは貞奴の生涯の、前半生の頁《ページ》だけを繰ってそれで足れりとする人のいう事である。何にも完全はのぞまれないとしても、わたしという慾張りは、おなじ時代に生れた女性の、一方の代表者を、よりよく、より輝かしい光彩をそえて、終りまでの頁を、立派なものにして残したいと望んだからであった。小さな断片でも永久に亡びない芸術品はあるが、貞奴のそれは大きく、広く、波動に包まれた響きの結晶である。それが末になって崩れていたならば、折角築きあげられたものの形を完全《なさ》ないではないか、わたしの理想からいえば、貞奴の身体が晩年にだけせめて楽をしようとするのに同情しながらも、それを許したくなく思った。芸術に生き、芸術に滅びてもらいたかった。雄々《おお》しく戦って、痩枯《やせが》れた躯《からだ》を舞台に横たえたとき、わたしたちはどんなに、どんなに彼女のために涙をおしまないだろう。讃美するだろう。美しい女優たちは、自分たちの前にたって荊棘《いばら》の道を死ぬまで切りひらいた女《ひと》の足|許《もと》に平伏《ひれふ》して、感謝の涙に死体の裳裾《もすそ》をぬらし、額に接吻し、捧《ささ》ぐる花に彼女を埋《うず》めつくすであろう。詩人の群はいみじき挽歌《ばんか》を唄《うた》って柩《ひつぎ》の前を練りあるくであろう。楽人は悼《いた》みの曲を奏し、市人は感嘆の声をおしまず、文章家は彼女が生れたおりから死までが、かくなくてはならぬ人に生れたことを、端厳《たんごん》な筆に綴《つづ》りあわせたであろう。わたしはそうした終りを最初の女優のこの人に望んだ。そう望むのが不当であろうとは思っていない。
引退のおりの配りものである茶碗には自筆で、
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兎《と》も角《かく》ものがれ住むべく野菊かな
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の詠がある。自選であるか、自詠であるかどうかは知らないが、それにしても最初の句の「ともかくも」とは拠《よん》どころなくという意味も含んでいる。仕方がないからとの捨鉢《すてばち》もある。まあこんな事にしておいてという糊塗《こと》した気味もある。どこやらに押付けたものを籠《こ》めていて不平がある句といってもよい。「とりあえず」「どうやらこうやら」という意にも訳せないことはないが、それでは嘘になる。何故ならば、彼女の引退は突然の思立ちかも知れないが、そうした動機が読みこまれているようにはとれないほど準備した興行ぶりであった。住む家もこれからの生活も安定なものである事は誰れも知ったことで、無常を感じたり、禅機などから一転して急に世からのがれたくなったのではない事はあんまり知れすぎていた。それゆえに、草の中へでもかくれてしまおうというような「とりあえず」には思いおよぶことが出来ない。もしもまた、亡夫川上の墓石もたてたから、これをよい時機として役者を止《や》めようとしたのであったならば、貞奴の光彩のなくなったのも尤《もっと》もだと、頷《うなず》かなければならないのは、あれほどの人でも役者をただ商売としていたかと思うそれである。
思わずも憎まれ口になりかかった。わたしがそう言うのも、その実は、この女優の引退をおくるに世間があんまり物忘れが早くて、案外同情を寄せなかったことに憤慨したゆえでもあった。わたしはせめてこの優《ひと》に培養《つちかわ》れた帝劇の女優たちだけでも、もすこし微意を表して、所属劇場で許さなくとも、女優たちの運動があって、かの女の最終の舞台を飾り、淋しい心であろう先輩を悦ばせてもよかったであろうにと思った。
彼女は日本の代表的名女優として海外にまでその名を知られている。かえって日本においてより外国での方が名声は嘖々《さくさく》としている。進取|邁進《まいしん》した彼女のあとにつづいたものは一人もない。もうその間《あいだ》は十幾年になるが、一人として彼女の塁《るい》を摩《ま》したものはないではないか。それは誰れでも自信はあるであろう。貞奴に負けるものかとの自負はあっても、他から見るとそうは許されぬ。それは彼女の技芸そのものよりは度胸が、容姿が、どんな大都会へ出ても、大劇場へ行っても悪びれさせないだけの資格をそなえている。貞奴のあの魅惑のある艶冶《えんや》な微笑《ほほえ》みとあの嫋々《じょうじょう》たる悩ましさと、あの楚々《そそ》たる可憐《かれん》な風姿とは、いまのところ他の女優の、誰れ一人が及びもつかない魅力《チャーム》と風趣とをもっている。彼の地の劇界で、この極東の、たった一人しかなかった最初の女優に、梨花《りか》の雨に悩んだような風情《ふぜい》を見|出《いだ》して、どんなに驚異の眼を見張ったであろう。彼女のその手嫋《たおや》かな、いかにも手嫋女《たおやめ》といった風情が、すっかり彼地の人の心を囚《とら》えてしまった。あの強い意志の
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