、好い心持ちではなかったらしいが、その容姿については感嘆していた。それはたしか彼女が十九位のことであった。
その後わたしが、漸《ようや》く芝居のことなどもすこしばかり分りかけて来た時分に、芳町の奴が川上音二郎のおかみさんになるのだってというのをきいて、みんなが驚ろいている通りに、大層な大事件のようにきいていたことがあった。それは明治廿五年、奴が廿二歳のおりだと後で知った。なんでわたしが大事件のように耳にとめていたかというのに、前にも言った通り、芳町は近い土地であり、往来《ゆきき》に浜田屋の門口《かどぐち》も通ったり、自然と奴の名も聞き知っていたからであった。それに、浅草《あさくさ》鳥越《とりこえ》の中村座に旗上げをした、川上音二郎の壮士芝居の人気は素晴らしかったので――彼れが俳優として非凡な腕があるからというのではなく――書生が(自由党の壮士が)演説と芝居とを交ぜてするという事が、世間の好奇心を誘って評判されていた。わたしはその頃ぽつぽつと新聞紙や、『歌舞伎新報』などをそっと読みふけっていたので、耳から聞く噂ばかりでなく、目からもそれらの知識がすこしはあった。それに父は自由党員に知己も多かったので、種々《いろいろ》話をしているときもあった。川上の他に、藤沢浅二郎《ふじさわあさじろう》は新聞記者だとか、福井は『東西新聞』にいたがとか、壮士芝居の人物を月旦《げったん》していることもあった。見物をたのまれて母なども行ったらしかった。とはいえ、興味をもっても直《すぐ》に忘れがちな子供のおりのことで、川上音二郎が薩摩《さつま》ガスリの着物に棒縞《ぼうじま》の小倉袴《こくらばかま》で、赤い陣羽織を着て日の丸の扇を持ち、白鉢巻をして、オッペケ節を唄わなかったならば、さほど分明《はっきり》と覚えていなかったかも知れない。
しかし子供ごころに、オッペケペッポの川上はさほど傑《えら》い人だと思っていなかった。それよりも芳町の奴の方が遥《はる》かに――芸妓でも抱《かか》え車《ぐるま》のある――傑い女だと思っていた。なんで、川上のおかみさんになぞなるのだろうと、漠然《ばくぜん》とそんなふうに思ったこともあった。その後、川上座の建築が三崎町《みさきちょう》へ出来るまで、奴の名には遠ざかっていた。
けれどもそれはわたしが彼女の名に接しなかっただけで、彼女には新らしい生活の日の頁が、日ごとに繰りひらかれていった。そしてその五、六年の間に、川上の単身洋行が遂行された。それは生涯をあらたに蒔直《まきなお》そうとする目的をもった渡航であった。そのおり川上は、壮士俳優を止めてしまおうと思っていたとかいうことだったが、米国に渡ってから再考して見なければならないと思い、充分に考慮してのち、やっぱり最初自分の思立ったことは間違っていなかったと気がついた。それから直に帰朝した彼れは、もうすぐに演劇革進論者であった。時流より一足さきに踏出すものの困難を、つぶさに甞《な》めなければならない運命を彼れは担《にな》ってかえってきたのだった。そして、当然、夫の、重い人生の負担に対して、奴のお貞も片荷を背負わなければならない運命であった。漸く平静であろうとした彼女の人生の行路が、その時から一段|嶮《けわ》しくなり、多岐多様になっていった分岐点が、その時であった。
川上音二郎の細君の名が、わたしたちの耳へまた伝わって来たころには、彼女は奔命《ほんめい》に労《つか》れきっていたのだ。彼女は(最近引退興行のおりに、『演芸新聞』に自己の談話として載せたように)芸妓から足を洗って素人《しろうと》になるにしても、妾《めかけ》と呼ばれるのがいやで、どうか巡査でもよいから同情の厚い人の正妻になり、共稼《ともかせ》ぎがして見たいと思っていたので、川上との相談もととのい結婚はしたが、勝気の彼女としては夫とした川上をいつまでもオッペケペッポではおきたくなかったのだ。
在米一年半ばかりで、野村子爵に伴われて帰って来た川上は、洋行戻りを土産《みやげ》に、かつて自分がひきいていた一団のために芝居を打たなければならなくなり、浅草区|駒形《こまかた》の浅草座を根拠地にして、「又意外」で蓋《ふた》をあけた。その折の見物の絶叫は、凄《すさ》まじいほどで、新派劇の前途は此処に洋々とした曙《あけぼの》の色を認めたのであった。それに次いで起った問題は、劇道革進の第一程として、欧米風の劇場を建設することで、川上は万難を排してその事業に驀進《ばくしん》した。それとても奴の力がどれほどの援助であったか知れなかった。
浜田屋亀吉の娘で芳町の奴である細君の名は、貧乏な書生俳優、ともすれば山師と見あやまられがちな川上よりも、信用が百倍もあった。細君の印形《いんぎょう》は五万円の基本金を借入れて夫の手に渡し、川上座の基礎はその
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