に繰りひらかれていった。そしてその五、六年の間に、川上の単身洋行が遂行された。それは生涯をあらたに蒔直《まきなお》そうとする目的をもった渡航であった。そのおり川上は、壮士俳優を止めてしまおうと思っていたとかいうことだったが、米国に渡ってから再考して見なければならないと思い、充分に考慮してのち、やっぱり最初自分の思立ったことは間違っていなかったと気がついた。それから直に帰朝した彼れは、もうすぐに演劇革進論者であった。時流より一足さきに踏出すものの困難を、つぶさに甞《な》めなければならない運命を彼れは担《にな》ってかえってきたのだった。そして、当然、夫の、重い人生の負担に対して、奴のお貞も片荷を背負わなければならない運命であった。漸く平静であろうとした彼女の人生の行路が、その時から一段|嶮《けわ》しくなり、多岐多様になっていった分岐点が、その時であった。
 川上音二郎の細君の名が、わたしたちの耳へまた伝わって来たころには、彼女は奔命《ほんめい》に労《つか》れきっていたのだ。彼女は(最近引退興行のおりに、『演芸新聞』に自己の談話として載せたように)芸妓から足を洗って素人《しろうと》になるにしても、妾《めかけ》と呼ばれるのがいやで、どうか巡査でもよいから同情の厚い人の正妻になり、共稼《ともかせ》ぎがして見たいと思っていたので、川上との相談もととのい結婚はしたが、勝気の彼女としては夫とした川上をいつまでもオッペケペッポではおきたくなかったのだ。
 在米一年半ばかりで、野村子爵に伴われて帰って来た川上は、洋行戻りを土産《みやげ》に、かつて自分がひきいていた一団のために芝居を打たなければならなくなり、浅草区|駒形《こまかた》の浅草座を根拠地にして、「又意外」で蓋《ふた》をあけた。その折の見物の絶叫は、凄《すさ》まじいほどで、新派劇の前途は此処に洋々とした曙《あけぼの》の色を認めたのであった。それに次いで起った問題は、劇道革進の第一程として、欧米風の劇場を建設することで、川上は万難を排してその事業に驀進《ばくしん》した。それとても奴の力がどれほどの援助であったか知れなかった。
 浜田屋亀吉の娘で芳町の奴である細君の名は、貧乏な書生俳優、ともすれば山師と見あやまられがちな川上よりも、信用が百倍もあった。細君の印形《いんぎょう》は五万円の基本金を借入れて夫の手に渡し、川上座の基礎はその
前へ 次へ
全32ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング