る人だというので憎み罵《のの》しるものもあればあるほど、畏敬《いけい》されたり、愛敬《あいきょう》があるとて贔屓《ひいき》も強かったり、ともかくも明治朝臣のなかで巍然《ぎぜん》とした大人物、至るところに艶材を撒《ま》きちらしたが、それだけ花柳界においても勢力と人気とを集中していた。奴は客としては当代第一たる人を見立てたのである。家には利者《きけもの》の亀吉という養母が睨《にら》んでいる。そして何よりも――眠れる獅子王《ししおう》の傍に咲く牡丹花《ぼたんか》のような容顔、春風になぶられてうごく雄獅子の髭《ひげ》に戯むれ遊ぶ、翩翻《へんぽん》たる胡蝶《こちょう》のような風姿《すがた》、彼女たちの世界の、最大な誇りをもって、昂然《こうぜん》と嬌坊第一にいた。
彼女も、そうした社会の女人《にょにん》ゆえ、早熟だった。彼女は遊びとしては、若手の人気ある俳優たちと交際《まじわ》っていた。そして彼女がもっとも好んだものは弄花《ろうか》――四季の花合せの争いであった。金《かね》びらのきれるのと、亀吉仕込みの鉄火《てっか》とが、姿に似合ぬしたたかものと、姐《ねえ》さん株にまで舌を巻かした。
奴の芸妓としての盛時は十七、八歳から廿一歳ごろまでであろう。
奴は芸妓時代から変りものであった。その時分ハイカラという新熟語《ことば》はなかったが、それに当てはめられる、生粋《きっすい》なハイカラであった。廿二、三年ごろには馬に乗り、玉突きをしたりしていた。髪もありあまるほどの濃い沢山なのを、洗髪の捻《ねじ》りっぱなしの束髪にして、白い小さな、四角な肩掛けを三角にかけていた。大磯の海水浴の漸《ようや》く盛りになった最中、奴の海水着の姿はいつでも其処に見られ、彼女の有名な水練《すいれん》は、この海でおぼえたのであった。
「奴が来ておりましたよ、大磯の濤竜館《とうりゅうかん》に……男見たような女ですね、お風呂《ふろ》で、四辺《あたり》にかまわないで、真白に石鹸《せっけん》をぬって、そこら中あぶくだらけにして……」
そんなことを、あるおり、某華族の愛妾が言っていたことがあった。その語《ことば》のなかには、すこし反感をふくんだ調子があったが、
「沢山な毛髪《かみのけ》のなんのって、お風呂の中でといて、ぐるぐると巻いているのを見ると、ほんとにその立派なことって……」
彼女の傍若無人であったことには
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