あるとき
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)口《くち》ずさんだり
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)書かう/\と
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むさしのの草に生れし身なればや
くさの花にぞこころひかるる
[#ここで字下げ終わり]
と口《くち》ずさんだりしたが、
「わたしの前生《さきしやう》はルンペンだつたのかしらん。遠い昔、野の草を宿としてゐて、冷《ひえ》こんで死《し》んだのかもしれない。それでこんなに家《うち》のなかにばかりゐるのかしら?」
門《かど》を一足《ひとあし》出て、外の風にあたると、一町も千里もおんなじだと氣が輕くなつてしまふのにと、いふと、出《で》おつくうがる性《しやう》なのを知つてゐるものは手を叩いて笑つた。
今朝《けさ》ふと、雨上りの草の庭を眺めてゐて、海をおもつた。それも涯《はて》しないひろい大洋が戀しくなつたのだ。
昨日《きのふ》のはなしの折にも、私は毎年《まいとし》繰返していつてゐる、秋には山へいつて、山の風に吹かれてくるのだと、今年も出來ない相談であらうことを樂しく語りながら、高原に立つて秋草を吹き靡かす初秋の風に身をまかせて、佇んでゐる自分《じぶん》を描き、風の香《かをり》をなつかしんでゐたのだ。足を勞さないで、居ながらに風景を貪る癖《くせ》からなのか、それとも、空ばかり眺めくらしてゐた太古《たいこ》の、前生人《ぜんしやうびと》からの遺傳か、それこそ一足《ひとあし》から千里《せんり》も飛ぶやうな空想が、私にはなかなか役にたつ遺産で、私の心を、役《えん》の行者《ぎやうじや》のやうに、雲にして飛ばしてくれる。
しかし洋《わだ》の原《はら》が戀しくなつたのは、高原《やま》の風が辷りこむやうに、空想が海を走つたばかりではなかつた。私の二人の古い友達が、海《うみ》のあなたに渡《わた》つて、長く歸らないことが、堪らなくさびしくなつたのだつた。
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「此間《こなひだ》あなたに小《こ》つぴどく怒られた夢《ゆめ》を見た。いつか長い手紙を頂いて、毎日毎日友達は嬉しいなと思ひながら、手紙を書かう/\と思ひつつ段々のびたのと、あれから久しくたつて、やうかんがついたといふので、遠いとこまで足を運んだのでしたが、一度は代人でパスポートがなくてダメ、二度目は休み時間、三度目はとう/\間に合はず羊羮は洋行して歸つてしまつたので、追かけもならず、御心入れをとう/\ムダにしてしまひ、何とも申譯もないと思つてた時の夢だつたのです。元氣でゐて下さい。パリになんかベンベンとしてゐると、だんだん馬鹿になることがわかつてゐるけれど、おいそれとは歸られずに居ます。どうぞ病氣はしないで下さい。やせて返事が消えては大變だから待つてて下さい。
正宗さんの何か集があつたら送つてください。たのみます、なるべく早く。
これはパリ・オペラ夜景。どつしりしてますが、もう汚《よご》れて鼠色です。岡田八千代」
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とした七月二日出の繪はがきは、シベリア經由なのにまる一ヶ月もたつて、二月十日に出して七月末の日に返送された「虎や」の羊羮《やうかん》の小包と前後して私の手《て》に渡つた。
なんで、私が怒つた夢なんぞ見たのだ。悲しがつてゐる夢を見て、早く歸りたい氣持ちになつてくれればよいにと、さびしかつた心が、海を行く空想を逞しくさせたのだつた。
――かう降りつづいては、汽船の室《なか》でも垂れこめて――
土用《どよう》のうちの霖雨《つゆのあめ》を、微恙《びよう》の蚊帳のなかから眺め、泥濁《どろにご》つた渤海あたりを、帆船《ジヤンク》が漁《すなど》つてゐる、曾て見た支那海《しなのうみ》あたりの雨の洋中《わだなか》をおもひうかべる。そのかたはら、この冷氣はオホツク海から寒流がくる潮《しほ》の加減だと書いてあつたがと、ウロ覺えの新聞知識で天文學者の卵でもあるかのごとく案じ、さういへば、ロシアでは氷に閉された北洋の潮流變更に苦心してゐるといふが、學術的にそれが成功すると、我國の被害は甚大で、氣候の變化があらうと、嘘か誠か、何かのはしで讀んだ事が妙に氣がかりにもなるが、無論それはとりとめもない考への主流でなく、眼は洋中《わだなか》のごとき庭の青さと、銹銀色《さびぎんいろ》の重い空の、霧つぽい濕つた外《おもて》を見てゐたが、空想旅行の方はとつくに船《ふね》はてて上陸し、パリの友達の寓居をノツクしてゐた。
いつぞや林芙美子さんが、パリの食品市場で、八千代さん
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