部が出來た時分は、日本室の大廣間を宴席にするをりなど、それからそれと聞いて借りに來た。
 唐の郭子儀といふ人は、八十五歳まで生きて、子孫多く、臣下でも王とよばれ、功成り名遂げた人だといふので、そのいみじき福にあやかれと、祝はれたものであらうが、實はその双幅は、幾人かの婚禮に――婚禮にといふより、その結果に面白くないことがあつて、父はそれを、よろこんで人に貸さなくなつてしまつた。嫌氣《いやき》がさしたのかどうか、後には他人に讓つてしまつた。しかし、その軸をかけたら、あの縁組みの後日も、この縁組みののちも、悲しみがあつたといふわけではないのに、變なはめ[#「はめ」に傍点]で、めでたい筈の「郭子儀」の雙幅が、不目出たいものにされてしまつたが、もとよりその罪は此幅にあるのでなく、その時代の風習こそ呪ふべきだつたのだ。
 床の間に掛けた「郭子儀」の幅に、不結果な婚姻《こんいん》の罪をなんで着せたか――明治中期は封建的遺産を多分に保つてゐた。といふより、結婚成立の道程などは、明治のはじめに文明開化と、舊弊なチヨン髷を切りとつてしまひながら、頭中のシンは、いつまでも古くさくて、そつくりそのまま昔通り
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