なしが「郭子儀」の幅のことになつて、もしかするとそれは楓湖《ふうこ》でせう。容齋先生の門にゐた若い時分、柳里恭の「郭子儀」をなんとかしたといふやうなことを言つたのを、たしか耳にしたがと言つてゐた。
これは、今日になつて考へてみると、別に惡いことでもなんでもない。よいものを失つては天下の損失であるから、摸寫しておくのは頼まれなくても頼まれても惡いことではないのに、その當時の人は堅苦しくて、摸寫をさういふふうにもとらず勉強のためともとらず、贋物つくりのやうに、その者を侮辱するかのやうに聲をひくめて、遠慮して子供にもきかせたくないやうな顏を、わたくしの父などもした。楓湖《ふうこ》とは松本楓湖で、菊池容齋門下の逸足、明治年間の高名な繪かきの一人だつた。
今村興宗は楓湖さんのお弟子だつた。紫紅もさうだつたやうだ。興宗はよくこんなことを言つてゐた。わたくしは左利きになつてしまつたが、弟は右利き、すこしでもお金があればわたしは酒を呑む、弟は鎧の引きちぎれを買つて來て眺めてゐる。古本の參考書も買つて來て讀む。どうも勉強が違ふと歎いてゐたが、大酒の勢ひにまかせ、達者に描きなぐつてしまはなければ、もつ
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