がまた、たいした手柄をしたやうに傳はつたのだが、前にいつたわたくしの家の「郭子儀」組だつた。姙娠《にんしん》したと祝はれたかと思ふと、急に死んでしまつた。本當のことか嘘か、噂では、嫁入りさきがあんまり堅實《かたぎ》な大家なので、嚴しくて、放縱《はうじゆう》な家庭から嫁《い》つてお腹がすいてすいて堪らず、ないしよで食べものをつまんで、口へ入れたときに呼ばれたので、あわてて飮込んだので死んだと――飮込んだのは醋鮹《すだこ》だともいはれたが――甚《ひど》い惡阻ででもあつたのか、または盲腸ででもあつたのか、それとも、死ななければならないほど思ひせまつたことでもあつたのか? 普通の死ならば、急性疾患でなくなつたのではあらうが、結局古い家憲にしばられて、生家に居たときとは、激しい變りかたが原因ではあつたかもしれない。
 と、も一人、親の見立に、もつとも盲順《まうじゆん》したやさしい娘の悲慘な結婚があつた。
 その娘の親が惚《ほ》れこんだのは、角店の構へと、居つき地主の持地所で、ちよつと人の目を瞠らせるに足る廣さだつた。商業ぶりも非常に派手だつた。たつた獨りの息子で、老父は――全く老父といつてもよい八十歳ほどの人だつた。二十二三の忰《せがれ》に八十の老爺、その二人だけの家内といふのが氣になるわけなのに、それをすら好條件の一個條に仲人はあふりたてた。なるほど、姑は居ない、舅《しうと》は年齡からいつても八十歳ならば、もはや餘命いくばくもない筈である。嫁《とつ》がせる娘よりは、その母人の方がすつかり乘氣になつてしまつたのだつた。精力的な四十女は、大家内の娘の婚家の内外を、やがて、自分も手傳つて切り盛りするであらう樂しさをさへ語るのだつた。親類の少いのも、嫁にとつては居よいとさへ仲人はいふのだつた。
 だが、その婚家は、どうしてさう血縁のものがすくないかといふ、當然疑問にしてよい事は閑却されてゐたのだつた。これは、悲しいことがつづいてから後になつて檢討され、それだからだつたと言ひあはされたが、あはれな娘にとつては、なんにもならない後の祭りでしかなかつた。その家には、婿になる男の兄弟が八人もあつたのだが、みんな年頃になつて死んでしまつてゐたのだ。しかも、若い一番末のたつたひとり殘つた息子に急に嫁をさがしだしたのも、どうやら忰もまた氣欝症になつたと見て、早く嫁でももたせたらば跡に血筋を殘して
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