、蠢きそめてゐたをりであつたから、ただ一連《ひとつら》に從順にはなりきれなかつたのだ。そのための破婚もあつたであらうが、その中で、あまりにも無智にさへ思はれた結婚が二つほど、わたくしの心に忘れないものとして殘つてゐる。
明治二十年代のはじめだつた。木綿と金物との問屋ばかりが、何十年にも變らぬ近隣づきあひをしてゐるやうな町へ、ある時、パツと明るい色彩を輪入して來た店があつた。名古屋の方から移つて來たとかで、すべての事が、今日でいふ宣傳になつて、美しい娘のゐることと、色とりどりな洋傘《ようがさ》の卸問屋だつたのが、落著きすぎて陰氣なほどの町へ、強い刺戟《しげき》をあたへた。
その町の娘たちは、わたくしの知つてゐるばかりでも、二人や三人の美人ではなく、しかもそれが、ちよつと群をぬいた麗《うるは》しさだつたが、みな深窓のひととなりで、人の眼に觸れることが尠なかつた。問屋の店の者たちも謹んで噂をするだけだつたが、新しい、洋傘問屋の娘は、紫や、赤や、黄や、青の眩惑《げんわく》するやうな色の、女唐洋傘《めたうがさ》を、開いたりつぼめたり、つるしたりするその店の商業ぶりとおなじく、若者たちの眼をひかないではゐなかつた。彼女のおつくりは濃厚で、可憐といふよりは意識的に魅惑をもつてゐた。その娘が店に出てゐることが多い。こんなことは、男店の多いどつしりした店藏つづきの家には見られないことだつた。その上、夕暮かたになると、彼女たちの一隊は、堅氣な家の家族には見られない身のこなしで、うつくしい年増の母人もついて、女たちばかりで日蓮さまへ日參しにゆくのだつた。
これは散歩と見ればなんでもないのだが、店の主人でも店用でないときには、新道の裏木戸から見立たぬやうに出歩くのが習慣の近所は、びつくりさせられたのだつた。彼女たちはまたさうして錢湯にゆくこともあるが、新道をゆかずに通り町《ちやう》を歩いた。しかもそれが、各戸の暖簾をはづす暮あひなので、番頭も若主人も、暖簾をはづす時間には、みな店さきへ立つて終日の息をぬいてゐる時分なので、そこへ目新しい華やかな刺戟をうけるのだから、その噂は見る見る擴がつてしまつた。桃色鹿の子の結綿島田の大柄すぎるほどの娘は、實質より人氣で、すばらしい小町娘になつてしまつた。
その娘が、小船町《こぶなちやう》のたしか砂糖問屋の資産家へ嫁入りすることになつた。その評判
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