教育の目的
新渡戸稲造
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)独逸《ドイツ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近来|亜米利加《アメリカ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)教育[#「教育」に丸傍点]
[#…]:返り点
(例)可[#三]以濯[#二]吾纓[#一]
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今日世界各国の人の学問の目的とする所には種々あるが、普通一般最も広く世界に行われている目的は、各自の職業に能く上達するにある。マア職業教育とでも言おうか。あるいはモウ一層狭くいうと、実業教育というのが、能くその趣意を貫いているようである。子弟を教育するその目的は、先ず十中の七、八まで職業を求むるに在る。殊に日本に於いては職業を得るために教育を受くる者が多い、百中の九十九まではそうかと思われる。昔はどうであったか知らぬが、近頃は各国共にこの目的を以て、教育の大目的としているようである、殊に独逸《ドイツ》などでは、最もそういう風である。
近来|亜米利加《アメリカ》の教育法はどうであるか。亜米利加は何のために大いに普通教育を盛んにしているかというと、即ち良国民を拵《こしら》えることがその目的である、能く国法を遵奉《じゅんぽう》する国民を造るのである。大工左官をさせたならば独逸人に負けるかも知れぬ。大根を作り、薯を作らしたならば、愛蘭《アイルランド》の百姓に及ばぬかも知れぬが、先ず国家の組織あるいは公益ということを知り、大統領を選ぶときにも、村長を選ぶ時にも、必ず不正不潔な行為をしてはならぬ、国家のため、一地方のためだという大きな考を以て、投票するような国民を養成したいというのである。彼の料理屋で御馳走になった御礼に投票するのとは、少し違うようだ。仏蘭西《フランス》人は少しく米国人と異っている。同じ共和国ではあるかなれども、国民が投票する時に、亜米利加ほど合理的にすることはあまり聞かない。仏蘭西人は何のために子弟に教育を施すかというと、先ずお役人にしたい、月給取にしたいというのである。十歳から二十歳まで教育すると、毎月|幾許《いくばく》の金を要する。合計十ヶ年間に幾千|法《フラン》の金がいる。これだけの金を銀行に預けて置けば、年五朱として何程の利殖になる。けれども都合好く卒業をして、文官試験にでも及第すれば、何程の俸給が取れる。あるいは何々教師の免状を取れば、これくらいの月給に有り付くというので、先ず算盤《そろばん》をせせくって、計算した上で教育する。これは職業を求むるためなのである。否職業を求むるというよりも、位地を求むるためなのである。
これに類して独逸の教育法も、職業教育とか実業教育とかを主とするのである。独逸語のヴィルトシャフトリッヘ、アインハイト(Wirtschaftliche Einheit)、英語のエコノミック、ユニット(Economic Unit)、即ち「経済上の単位」を能く有効にしようというのが目的である。即ち一国一市をして、なるたけ生産的に発達せしむるには、どうしたら宜《よ》いか、如何にせば最も国家経済のためになるかと、経済から割出した議論を立てて来ると、いわゆる社会経済とか国家経済とかいって、国の生産を興さねばならぬということになる。殖産を盛んにしたならば、即ちその国その市の発達が一番に能く出来る、それがためには、先ず経済的の単位として子弟の教育をするに帰着する。ちょっと仏蘭西に似ているようではあるけれども、独逸のは子弟を職業に進めるのであり、仏蘭西のはその実位地を求めさすためである。教師になりたい、役人になりたいと、位地をチャンと狙ってやっている。かようかようの位地を得たい、それにはこれだけの学問が要《い》る。即ちこれだけの準備をするために何程の金を要するといって、チャンと算盤を弾いてやるから、これは仕事を求むるのではない、位地を求むるのである。能く考えて見ると、これは独り仏蘭西ばかりでない、世界各国とも、皆そういう傾向になっているであろうが、就中《なかんずく》仏蘭西が最も著しいのである。
これを日本の例に取ると、少しく政治論のようだが、例えば農学をやる、何故農学をやるかというと、おれは日本の農業を改良したいからだと言うであろう。されど日本の農業を改良するに就いては、種々の方法があるので、尽《ことごと》く自分一人でやらなくても宜《よ》い、それは到底出来ることでない。各個分業で農業の方法を漸次改良すれば宜いのである。けれども一つ間違うと日本の農業を改良するには、どうしても農商務大臣にでもならねばならぬ、そういう地位に達しなければ仕事が出来ないように思う人もある。然るに明治十四年に農商務省が出来てより今日に至るまで、農商務大臣が幾人変っているか知れぬ。そのお方々が日本の農業改良のために、どれだけの事を尽されたかというと、何だか知らぬが、僕の眼にはあまり大きく見えない。山高きが故に貴からず、木あるを以て貴とし、位あるがために貴からず、人格あるが故に貴しとす。位地と人格との差は大なるものである。日本の教育に於いては普通仏蘭西風に、皆おれはどういう地位を得たい、銀行の頭取になりたい、会社の重役になりたい、あるいは役人になりたい、しかも高等文官になりたいといって、初《はじめ》からその位地を狙っている。そうしてそれがために五年なり十年なり奔走している間に官制改革……ヒョイと顛《ひっく》り覆《かえ》ってしまう。職業教育を狭くやると、そういう弊に陥《おちい》って来る。それならといって、僕は決して職業教育をするなというのではない、職業を求むるために教育をすればまた宜いこともある。それは独逸の例を見れば分る。かの鈍い独逸人、あれほど国民として鈍い者はあるまいと思われ、皆が豚を喰い、ビールを飲んで、ただゴロゴロとしているので、国民としては甚だ智慧の鈍い者である。そうして愛国心なども有るのか無いのか、ようよう三十余年前に仏蘭西と戦争をして勝ったから、アアおれの国もやッぱり人並の国だわいと思って、初めて一個の邦国たる自覚が起った。かく未だ目が覚めてから四十年にもならない、それまでは熟睡しておった国である。その国民にして今日の如き進歩をなしたのは、主としてこの職業教育が盛んになった結果であることは僕が断言して憚《はばか》らぬ。故に国を強くし、殊に殖産を盛んにする国是《こくぜ》の定まった以上は、職業のために――位地のためとは言わない――教育することは誰しも大いに賛成する所である。
職業教育に就いては、ここにまた最も著しき一例がある。英国の富豪モーズレーは、世界の趨勢《すうせい》を鑑《かんがみ》るに、独逸と亜米利加とは国運勃興の徴候が見えている。然るに独逸は国土に限りがあるが、亜米利加はトント限りがない。故に後来|英吉利《イギリス》の最も恐るべき敵は亜米利加であるぞ。だから一つ亜米利加の経済状態を探究して見ようというので、自腹を切って数万の金を出し、これは政府より依頼されたのではない、モーズレー自身が金を出し、英吉利の有名なる数多の人々を委員に頼み、商業、工業、農業あるいは教育と、それぞれ各自の取調事項の分担を定めて、彼らを亜米利加へ派遣して取調べさせた中に教育に関した調査がある。それによって見ると、亜米利加では小学校を卒業した者、即ち十歳くらいの子供が何か詰らない仕事をして、一日に十|仙《セント》か八仙くらいの賃銭を貰う。その給金が段々と年を重ぬるに従って増して行く。十五歳になれば五十仙取れる、二十歳になるとズット進んで一|弗《ドル》も取れるようになる。それからなお段々と長ずるに従って進むかというと、先ず概してそれより以上は進まない。二十五歳でも一弗、三十歳でも一弗、五十歳にもなれば八十仙というような工合に下って来る。これはいわゆる小学校だけの教育を施したものであって、職業的の教育を授けたものでないからである。ところがここにやや高等な教育を受ける者がありとすれば、その子供が十歳の時分には十銭も取れない。小学校を卒業すれば引続いて中学校へ這入《はい》るのだから、むしろ十銭どころではない、なお学費を要する。マイナスくらいなものである。そうして二十歳くらいになってやや高等の学校を卒業すると、図を引くとか、機械を動かすようになる。そうすると直ぐにいくら取れるかといえば、一弗は取れない、先ず五十仙とか八十仙くらいなものである。前にいった小学校を出て、直《すぐ》に十仙の金を取る者を甲といい、後者を乙とすれば、僅か小学校を卒業した者でさえ、二十歳になって一弗の収入を得ているのに、やや高等の学校を卒業した者が、二十歳になって六十仙か八十仙しか取らない。しかもそれまでは一文の金を儲《もう》けるどころではない、常に親の脛《すね》を齧《かじ》っており、そうして学校を出てからの儲け高が少いから、双方の親が寄合って何というであろうか。甲者の親が乙者の親に向って、「お前の子供は何だ、高等の学校へ入れて金ばかりを使い、何だか小理窟のようなことばかりをいって、ようよう学校を卒業したと思ったら、僅かに五十仙か八十仙しか取らないじゃないか。して見るとおれの所の子供はエライものだ。小学校を卒業した十歳の時から金を儲け、今では一日に一弗も取っている、学問も何も要《い》らない、お前は飛んだことをしたものだ」と言うのである。かくのごときは我国に於いても往々聞くところの言葉である。然るに乙者が二十五歳になると中々前の一弗のままでない、一弗五十仙にもなる、三十歳になれば益《ますま》す良くなって来て二弗も三弗も取り、四十歳になると益す多くの収入を得るというような傾向である。然るに今一層高等なる職業学校、あるいは大学のような所へ子弟を入れるならば、二十歳になっても未だ卒業しない、二十五歳か三十歳近くになると、どうやらこうやら四角なシャッポを廃《や》めて、当り前のシャッポを冠《かぶ》る。「お前の所の小僧は、三十になるまでも親の脛を齧り、四角なシャッポを冠っている」とこう謂《い》われる。その小僧が大学を卒業して、銀行へ出たり、文官試験に出たりして都合よく行けば、ようよう月給三十円ぐらいだ。よほど良くって六十円、日に二円しか取れぬ。その代りに三十歳から四十歳になると、その途中で放蕩をしないで真面目にやって行けば、前にシッカリ学問をしたお蔭で、ドシドシと報酬額が増して来るのである。幾十円、あるいは幾百円というようになるであろう。五十ぐらいになれば国務大臣にでもなれる人物もある。初め十歳から金を取り始めた先生は、六十歳になっても、とても国務大臣の見込はない。これはモーズレーの委員の調べて書いたものの大意である。実にこの給料増進率が巧みに出来ている。
然るに職業のために教育をするに就いて、極めて困難なることはその程度である。一体教育なるものは、各自が心に存する力を発達せしむるのが目的であるのに、それに程度を定めて、これ以上発達せしむべからずと断定したり、あるいはその程度で以って押えるのは甚だ忍びないことである。けれども職業の教育になると、これを定めねばならぬ。手近い話が大工が釿《ておの》などを使うときにでも、出来るだけウンと気張ってやれといわれて、ウーンとありとあらゆる力を出してやった時には、どんなことが出来るか。材木を損するばかりではなく、自分の手足を負傷するかも知れぬ。物事には程よい加減があるから、職業を見当にする教育の方針も、これを充分に何処までもズット伸ばすことは難かしいと思う。ある漢学者から聴いたのに、教育[#「教育」に丸傍点]の字はよほど面白い字だ、育[#「育」に丸傍点]の字を解剖して見ると上の云[#「云」に白丸傍点]は子[#「子」に白丸傍点]という字を逆にしたのだそうで、下の月[#「月」に白丸傍点]という字は肉[#「肉」に白丸傍点]という意味だそうである。これは小供が彼方《あっち》向いているのを、美味しい物即ち肉を喰わせてやるから、此方《こっち》へ向けといって引張込《ひっぱりこ》む意で、これがいわゆる育[#「育」に丸傍点
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