ておけば、今は天気が晴れているけれども、これから車を挽いて三里も行けば、天気が変って来るからと、前以ってそれだけの賃銭を増して約束する。客の方でも車から降りるときに、かれこれ小言をいう必要がないというような種々な便利がある。かくのごとくに車夫学とでも言おうか、これを特殊の専門学校で教えるようにしたらどうであろう。されど一歩進んで考えると、車夫が生理学を学び、ちょっと人の脈でも取れるようになれば、やはり車を挽《ひ》いているだろうか、恐らく挽いてはいまい。脈が取れるようになると、もうパッチと半纒とを廃《や》めてしまい、今度は自分が抱車に乗って開業医になりはせぬか、それが心配である。してみると車夫なら車夫という職業で、彼らを捨て置いて、車夫以上の智識を与えてはならぬ。それと同じ事で、商業だろうが、工業だろうが、あるいは教育学であろうが、その他何の学問であろうが、人を一の定まった職業に安んじておこうと思えば、その職業以上の教育をせぬように程度を定めねばならぬ。然るにこれは甚だ圧制なやり方で、到底不可能ではあるまいか。維新以前は、左官の子供は左官、左官以外の事を習ってはならぬぞと押え附けていたかなれど、時々左官の子にして左官に満足しない奴も出て来た。あるいはお医者さんから政治家が出たり、左官から慷慨《こうがい》悲憤の志士が出たりした。これは何かというと、教育というものは程度を定め、これ以上進んではならぬといって、チャンと人の脳膸を押え附けることの出来ないものであるからだ。
 少年が大工になろうと思って工業学校へ這入《はい》るとする。然《しか》るに彼らは工業学校を卒業した暁に大工を廃《や》めてしまい、海軍を志願する、かかる生徒が続々出来るとする。すると県知事さんが校長を呼んで、この工業学校は、文部省から補助金を受けているとか、あるいは県会で可決して経費を出しているのであるとかいい、その学校の卒業生にして海軍志願者の多いのは誠に困ると、知事さんらしい小言をいう時には何《ど》うであるか。「お前は海軍の方へ這入り、海の上の大工になろうというのでもソレはいかぬ。大工をやるは宜《よ》いが、海上へ行ってはいかぬ、陸上の大工に限る」とチャンと押え附ける[#「押え附ける」は底本では「押へ附ける」]事が出来るか、それは決して出来ない。日露戦争に日本の海軍が大勝利を博し、東郷大将が大名誉を得られた。明治の歴史にこれほどエライ人はないということをば、大工の子供も聞いている。それに倫理の講堂では、一旦緩急あらば、義勇公に奉じ云々《うんぬん》と毎々聞いている。それで彼らが、これは陸上におったて詰らない。小屋だの料理屋だのを建てているよりも、おれも一つ海軍に入って、第二の東郷に成ろうという野心を起すことがありとしても、それは無理がない。そこで育の字だ、この上の方の子[#「子」に白丸傍点]が美味の肉を喰おうと思い、此方《こちら》へ向いて来るのもまた当り前である。それをこちらへ向かせまいと思ったら、あちらの方にも一つ美味しい肉を附けて、大工は東郷さんよりもモウ一際エライぞということを示さねばならぬ。ところが大工が東郷大将よりもエライということはちょっと議論が立ちにくい。ヨシ立ったところで子供の頭には中々這入らない。止むを得ない、社会の趨勢《すうせい》で、青年がドウしても海軍に行きたがるようになった時には、これを押え附けることは出来ない。けれどもその局に当る教育者が、なるたけ生徒をその職業の方に留めたいなら、その職業の愉快なること、利益あること、しかもただ個人のためのみの利益でない、一県下、一国のための利益だ、公に奉ずる道だということを能《よ》く教えねばならぬ。ナニ大工学だ、左官学だ、そんなものは詰らぬといって、馬鹿にするようではいかぬ。けれども世人が軍人軍人といっている間は、皆軍人に成りたいのは無理でないから、それで我々はお互いに注意して、職業に優劣を附けないようにせねばならぬ。
 一体子供は賞《ほ》められる方へ行きたい者である。小さい奴は銭勘定で動くものでない。日本人は賞められるのを最も重く思うことは、日本古来の書物を読んでも分る。日本人と西洋人との区別はその点に在るので、日本人は悪くいえばオダテ[#「オダテ」に傍点]の利く人間である、良くいえば非常に名誉心の強い人間である。譬えば日本の子供に対しては、このコップを見せて、「お前がこのコップを弄《もてあそ》んではならぬ、もし過《あやま》って壊したら、人に笑われるぞ」というのであるが、西洋の子供に対してはそうでない。七、八歳あるいは十歳くらいの子供に対して、「このコップは一個二十銭だ、もしもお前がこのコップを弄んで壊したら、二十銭を償わねばならぬ、損だぞ」というと、その子供はそうかなと思って手を触れない。日本の子供には損
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