傾向である。然るに今一層高等なる職業学校、あるいは大学のような所へ子弟を入れるならば、二十歳になっても未だ卒業しない、二十五歳か三十歳近くになると、どうやらこうやら四角なシャッポを廃《や》めて、当り前のシャッポを冠《かぶ》る。「お前の所の小僧は、三十になるまでも親の脛を齧り、四角なシャッポを冠っている」とこう謂《い》われる。その小僧が大学を卒業して、銀行へ出たり、文官試験に出たりして都合よく行けば、ようよう月給三十円ぐらいだ。よほど良くって六十円、日に二円しか取れぬ。その代りに三十歳から四十歳になると、その途中で放蕩をしないで真面目にやって行けば、前にシッカリ学問をしたお蔭で、ドシドシと報酬額が増して来るのである。幾十円、あるいは幾百円というようになるであろう。五十ぐらいになれば国務大臣にでもなれる人物もある。初め十歳から金を取り始めた先生は、六十歳になっても、とても国務大臣の見込はない。これはモーズレーの委員の調べて書いたものの大意である。実にこの給料増進率が巧みに出来ている。
 然るに職業のために教育をするに就いて、極めて困難なることはその程度である。一体教育なるものは、各自が心に存する力を発達せしむるのが目的であるのに、それに程度を定めて、これ以上発達せしむべからずと断定したり、あるいはその程度で以って押えるのは甚だ忍びないことである。けれども職業の教育になると、これを定めねばならぬ。手近い話が大工が釿《ておの》などを使うときにでも、出来るだけウンと気張ってやれといわれて、ウーンとありとあらゆる力を出してやった時には、どんなことが出来るか。材木を損するばかりではなく、自分の手足を負傷するかも知れぬ。物事には程よい加減があるから、職業を見当にする教育の方針も、これを充分に何処までもズット伸ばすことは難かしいと思う。ある漢学者から聴いたのに、教育[#「教育」に丸傍点]の字はよほど面白い字だ、育[#「育」に丸傍点]の字を解剖して見ると上の云[#「云」に白丸傍点]は子[#「子」に白丸傍点]という字を逆にしたのだそうで、下の月[#「月」に白丸傍点]という字は肉[#「肉」に白丸傍点]という意味だそうである。これは小供が彼方《あっち》向いているのを、美味しい物即ち肉を喰わせてやるから、此方《こっち》へ向けといって引張込《ひっぱりこ》む意で、これがいわゆる育[#「育」に丸傍点]の字の講釈だそうである。こういう意味に取るときには、職業教育もよほど注意しなければならぬ。何故かというと職業を授けて行くに、その職業の趣味を覚えさせねばならぬし、そしてその職業以上の趣味を覚えさせぬようにもせねばならぬ。
 かつて実業学校長会議の席上にて愚説を述べたことがある。その説の要点は、今日我日本に於いて、専ら職業教育を唱えるけれども、これには注意しなければならぬことがある。近頃我国には鍛冶屋のような学校もあれば、大工のような学校もある。高尚な学校は大学であるが、とにかく随分高尚な所まで、大工や左官の学問も進んで来ている。然るに実際今日職業の統計を取ったならば、必ずや日本国民の著しき多数は、車を挽《ひ》くのを渡世としている。日本国中の車夫の統計を挙げたならば、恐らくは全国の大工の数よりも、左官の数よりも余計に在りはせぬかと思われる。故に大工左官のために学校を建ててやる必要があるならば、その数の上からして、車夫のためにも学校を建てて遣ることが一層必要であろうというた。これは未だ僕がその筋に建議した訳ではないが、もし車夫学校を建てるとすると、それにはどんな学科が必要であろうかと思って、色々考えたが、先ず第一に生理学が必要と思った。彼らに取って欠くべからざるものは筋肉の労働である。車を曳く姿勢にも様々あり、また駆けるときにも、足を挙げて走る奴もあり、ヒョコヒョコと走る奴もある。これを兵式体操を教うるが如く、その筋肉を使う時分に「進めッ」といったら、こういう工合に梶棒を握り、足を挙げて駆けるのだと、一々教えてやったらドウであろうか。全国幾万という車夫が、最も経済的に筋肉を使用することが出来て、労力を多大に節約し得らるるだろう、これは大切な問題である。それに就いては一通り生理学を教えねばならぬ。生理学を教えておくことは独り車夫のためばかりでない、その車に乗るところのお客さんのためにも大なる利益がある。ちょっと車夫が客の顔を見て、「アアお客さん、あなたは脳充血でもありそうな方です」とか、あるいはちょっと脈を取って見て、このお嬢さんは心臓病があるとか分る、それで挽き加減をするようになる。また生理学ばかりでない、地質学も心得ていたらよかろう。客が彼方へ廻れといえば、すると、あそこの地質は何という地層で、雨の降る時分には中々滑る岩層であるとかいうことが分る。その他気象学も教え
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