得の問題をいっても、中々頭に這入《はい》るものでない。殊《こと》にお武士さんの血統を引いている人たちはそうだ。「損だぞ。」「そん[#「そん」に傍点]ならやってしまえ」といって、ポーンと毀《こわ》してしまう。それで日本人の子供に向って、「このコップは他人から委ねられた品物だ、一旦他人から保管を頼まれたコップを壊すというのは、実に恥かしい次第だ、大切にしておけ」とこういうのも宜《よ》いが、それよりは「お前がそんな事をすると、あのおじさんに笑われるぞ」というと直ぐに廃《や》めてしまう。人に笑われるほど恐ろしいものはないというのが、今日のところでは日本人の一つの天性だ。日本では名誉心――栄誉心が一番に尊い。であるから今いう職業のことでも同し道理である。大工や左官が卑しい者だといっていると、誰もそれになるのを嫌がる。軍人ばかりを褒《ほ》めると、皆軍人になりたがる、いわゆるオダテ[#「オダテ」に傍点]が利くのである。それでどんなに必要な職業でもそちらに向かない。しかし政府のいうことなら大概な事は聴く。いわゆる法律を能く遵奉《じゅんぽう》し、国家という字を頗《すこぶ》る難有《ありがた》がる国民であるから、法律を以て職業の順序を定めるも宜かろう。しかし県令や告諭ぐらいでは覚束《おぼつか》ない。内閣会議にでも出し、それから貴衆両議院で決めて、かなり人の嫌うような職業を重んずるようにする法令でも発布したら、あるいは利目《ききめ》があるかも知れぬ。けれども日本人はオダテ[#「オダテ」に傍点]の利く人間だから、そんなことをするよりも、遊ばせ[#「遊ばせ」に傍点]とかさん[#「さん」に傍点]の字をモット余計に使うようにすれば、大分利目があろうかと思う。「車屋さん、どうぞこれから新橋まで乗せて往《い》って戴きたいものです、お挽《ひ》きあそばせ。」「車屋さん、これは甚だ軽少ですが差上げましょう。」サアこうなって来ると車夫というものはエライものだ、尊敬を受くるものだとなって、車夫の位地もズット高まるし、また子供も悦《よろこ》んで車夫になるであろう。皆それぞれ高尚な資格を備えた人が車夫になる。今日では窃盗《せっとう》でもあるとか、あるいは喧嘩でもしたというと、その犯人としては車夫仲間へ一番に目を付けるという話だが、そんな事もなくなってしまい、一朝天下の大事でも起れば、新聞屋が車夫の所へ御高説を承わりたいといって往くようになろう。マア世の中はそんなものである。要するに一方に於て職業を軽蔑する観念が大いに除かれなければ、どれほど職業教育に力《つと》めたところで効能が薄かろう。
以上教育を施す第一[#「第一」に白丸傍点]の目的が職業であることを述べて来たが、然るに第二[#「第二」に白丸傍点]にはまたそれと反対の目的がある。それは即ち道楽である。道楽のために教育をする、道楽のために学問をすることがある。これはちょっと聞くと耳障りだ。けれども能くこれを味《あじわ》ってみると、また頗る面白い、高尚な趣味があろうと思う。人が学問をするのもこう行きたいものだ。来月は月給が昇るだろうと、職業的勘定ずくめの学問をすると、まるで頭を押えられるようなものだ。けれども道楽に学問をすると、そういうことがない。譬えば育[#「育」に丸傍点]の字の上の子[#「子」に白丸傍点]が、何だか芳しい香気がするぞ、美味《うま》そうだ、ちょっと舐《な》めてみようと思って、段々肉[#「肉」に白丸傍点]の方へ向って来る、即ち楽《たのし》みを望んでクルリと廻って来るのであるから、これほど結構なことはない。道楽のために学問することは、一方から考えると非常に高尚な事である。然るに日本人には道楽に学問するという余裕が未だないといっても宜い。
日本人は頭に余裕がない。西洋人には余裕があることに就いていえば、かの英吉利の政治家を見るに、大概の政治家は何か著書を出すとか、あるいは種々の学術を研究している。今の首相も、せんだっての新聞に載せてあるところを見ると、何とかいう高尚な書物を著《あら》わしている。グラッドストーンの如きは、あれほど多端な生涯を送ったにもかかわらず、常にホーマアの研究をしていた。故《もと》の首相ソールズベリー侯は自宅に化学実験室を設けておいて、役所から帰ると、暇さえあれば化学の研究をしていた。前首相バルフォアの如きは二、三種の哲学書を著している。然るに日本の国務大臣方にはどういう御道楽があるか。学者の読む真面目な書物などをお著わしになったことは一切ないという話である。それならどんな事をしてお出《い》でになるか、能くは分らぬ。酒席で漢詩でも作らるるが関の山であろう。してみると道楽のために学問をすることは、日本では未だ中々高尚過ぎるのである。その一つの証拠には、『女道楽』、『酒道楽』、『食道楽』というよ
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