面に於ては、人格修養の最良手段であろうと思う。
以上に述べたところのものを一言にしていわば、即ち教育の目的とは、第一[#「第一」に傍点]職業、第二[#「第二」に傍点]道楽、第三[#「第三」に傍点]装飾、第四[#「第四」に傍点]真理研究、第五[#「第五」に傍点]人格修養の五目に岐《わか》れるのであるが、これを煎じ詰めていわば、教育とは人間の製造である。しかしてその人間の製造法に就いては、更にこれを三大別することが出来ようと思う。例を取って説明すれば、その一はかの左甚五郎《ひだりじんごろう》式である。甚五郎が美人の木像を刻《きざ》んで、その懐中に鏡を入れておいたら、その美人が動き出したので、甚五郎は大《おおい》に悦び、我が魂がこの木像に這入《はい》ったのだと、なおもその美人を踊らして自ら楽しんだということは、芝居や踊にある。これは自分の娯楽のために人間を造るのである。第二例[#「第二例」に傍点]は、英吉利《イギリス》のシェレーという婦人の著《あら》わした、『フランケンスタイン』という小説にある話だ。その大体の趣意を一言に撮《つま》めば、ある医学生が墓場へ行って、骨や肉を拾い集め、また解剖室から血液を取り来り、これらを組合せて一個の人間を造った。しかしそれではただ死骸同然で動かない。それに電気を仕掛けたら動き出した。もとより脳膸も入れたのであるから、人間としての思想がある。こちらから談話を仕掛けると、哲学の話でも学術の話でもする。されどただ一つ困ったことには、電気で働くものに過ぎぬので、人間に最も大切なる情愛というものがない、いわゆる人情がない。それがためにその人間は甚だしくこれが欠乏を感じ、「お前が私を拵《こしら》えたのは宜《よ》い、しかしこれほどの巧妙な脳膸を与え、これほど完全なる身体を造ったにもかかわらず、何故肝腎の人情を入れてくれなかった」といって、大いに怨言を放ち、その医学生に憑《よ》り付くという随分ゾットする小説である。この寓意小説はただ理窟ばかりを詰込んで、少しも人間の柔かい所のない、温い情のない、少しも人格の養成などをしないところの教育法を責めるものである。かのカーライルは、「学者は論理学を刻み出す器械だ」と罵《ののし》ったが、実にその通りである。ただ論理ばかりを吹込んで、人間として最も重んずるところの、温い情と、高き人格とを養成しなかったならば、如何に
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