であることを自覚せねばならぬ。また人間はただの動物とは異っている。また単に道徳的万物の霊長というのみでもない。人間は社会的の活物である、故に人間をソシアスとして教育することが、最も必要なりと確信するのである。
 我日本に於いては、封建|割拠《かっきょ》の制度からも、自然と地方地方の人の間に隔壁を生じ、互に妙な感情を持つに至った。近頃は大分に矯正されたけれども、なお大分残っている。なおまた人怖がらせをするような、妙に根性の悪いことがある。折々書生仲間の中には、頭髪を蓬々とし、肩を怒らし、短い衣服を着て、怖い顔付をし、四辺を睥睨《へいげい》しながら、「衣至[#二]于肝[#一]、袖至[#二]于腕[#一]」などと謳《うた》って、太い棒を持って歩いている。そうしてなるたけ世間の人に不愉快な観念を与える。それを世間の人が避けると、「おれの威厳に恐れて皆逃げてしまう」などといって悦んでいる。女小供は度々そういう書生に逢うと、「また山犬が来たナ、噛附きそうだから避けよう」と思って避ける。しかし犬なら犬除《いぬよけ》の呪もあるけれど、四本足ではなくて、二本足で歩いている奴だから、「何だか気味の悪い奴だ」と思って避けるまでである。これは決してその書生らが悪いばかりでない、今までの教育法の結果、すべて他人を敵と視《み》る考から産出されている。この考は封建時代の遺物である。僕の生国は今日の巌手《いわて》県、昔の南部藩であるが、国隣りに津軽藩があった。南部と津軽とは、昔《むか》しからあたかも犬猫のように仲が悪かった。それがために南部の方から津軽の国境に向って道路を造れば、津軽の方はそれとはまるで方角の異った所へ道路を造るというような訳で、少しも道路の連絡が付かない。また津軽の方で頻りに流行《はや》っているものは、南部の方では決してこれを用いぬというような妙な根性があった。今までもなおその風がいくらか存している。この双方の間に隔壁を作ることが、即ちソシアスの性格のない証拠だ。然るに今日の日本は、露国と戦って世界列強の一に加わり、欧米文明国と同等の地位を占めたのである。されば今後の人間を教育せんとするに当っては、最早かかる孤立的観念、即ち偏頗《へんぱ》なる心を全く取去り、その大目的として、必ずや円満なる人間を造るよう、即ち何所《どこ》までもソシアスとして子弟を薫陶するようにありたい。これがまた一
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