も論理学を刻み出す器械に相違ない。そういう教育法を施すと、教育された人が成長の後に、何故おれみたような者を造ったかと、教師に向って小言をいい、先生を先生とも思わぬようになり、延《ひ》いては社会を敵視するに至る。故にかかる教育法は、即ち先生を敵と思えと教うるに等しいものである。
 それから第三[#「第三」に傍点]の教育法を説明する例話は、ゲーテの著わしたる『ファウスト』である。この戯曲の中に、ファウストなる大学者が老年に及び、人生の趣味を悉く味《あじわ》ったところで、一つ己れの理想とする人間を造ってみたいと思い、終に「ホムンキルス」という一個の小さい人間を造った話がある。その人間は徳利の中に這入っているので、その徳利の中からこれを取出してみると、種々の事を演説したり、議論したりする。しかしてファウストは自分で深く味い来って、人間に最も必要なるものと認めたる温き情愛をも、その「ホムンキルス」の胸の中に吹込んだのである。そこでその「ホムンキルス」は能く人情を解し、あっぱれ人間の亀鑑とすべき言行をするので、これを見る人ごとに讃歎して措《お》かず、またこれを造ったるファウストも、自分よりも遥かに高尚な人間が出来たことを非常に感じ、かつ悦んだということである。これは出藍《しゅつらん》の誉《ほまれ》ある者が出来たので、即ち教育家その人よりも立派な者が作られたことの寓説である。
 今日我国に於て、育英の任に当る教育家は、果して如何なる人間を造らんとしているか。予は教育の目的を五目に分けたけれども、人間を造る大体の方法としては、今いうた三種の内のいずれかを取らねばならぬ。彼らは第一の左甚五郎の如く、ただ唯々諾々《いいだくだく》として己れを造った人間に弄《もてあそ》ばれ、その人の娯楽のために動くような人間を造るのであろうか。あるいは第二の『フランケンスタイン』の如く、ただ理窟ばかりを知った、利己主義の我利我利亡者で、親爺の手にも、先生の手にも合わぬようなものを造り、かえって自分がその者より恨まれる如き人間を養成するのであろうか。はたまた第三のファウストの如く、自分よりも一層優れて、かつ高尚なる人物を造り、世人よりも尊敬を払われ、またこれを造った人自身が敬服するような人間を造るのであろうか。この三者中いずれを選ぶべきかは、敢て討究を要すまい。しかしてこれらの点に深く思慮を錬ったならば、教
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