いるを見れば、必ずそれだけでは人生を完《まっと》うしたということが出来ぬ。してみれば専門の事は無論充分に研究しなければならぬが、それと同時に、一般の事物にも多少通暁しなければ人生の真味を解し得ない。今日の急務はあまり専門に傾き過ぎる傾向をいくらか逆戻しをして、何事でも一通りは知っているようにしなければならぬ。即ち菊の花のことに就いていえば、おれは菊花栽培に最も精通している、それと同時にちょっと大工の手斧ぐらいは使える、ちょっと左官の壁くらいは塗れる、ちょっと百姓の芋くらいは掘れる。政治問題が起れば、ちょっと政治談も出来る、ちょっと歌も読める、笛も吹ける、何でもやれるという人間でなければならぬ。これは随分難かしい注文で、何でも悉くやれる訳にも行くまいが、なるべくそれに近付きたい。いわゆる何事に就いても何か知ることが必要である。これは教育の最大目的であって、かくてこそ円満なる教育の事業が出来るのである。ここに至って人格もまた初て備わって来るのであろうと思う。
 然るに今日では妙に窮窟なることになっていて、世の中に一種偏窟な人があれば、「あれはちょっと学者風だ」というが、実は人を馬鹿にした話である。また自分も一種の偏窟な人間であるのを、「おれは学者風だ」と喜んでいる人もあるが、僕の理想とするところはそうでない。「あれはちょっと学者みたような、百姓みたような、役人みたような、弁護士みたような、また商人のような所もある」という、何だか訳の分らぬ奴が、僕の理想とする人間だ。然るにそれを形の上に現わして、縞の前垂を掛けているから商人だ。穢《きたな》い眼鏡を鼻の先きに掛け、髭《ひげ》も剃らず、頭髪を蓬々としていれば学者だといい、その上傲然として構えていれば、いよいよ以てエライ学者だというように、円満なる発達の出来なかった者を以て学者風というのは、そもそも間違った話だと思う。けだし学問の最大目的は人間を円満に発達せしむることである。
 今日は学問の弊として、往々社会に孤立する人間を造り出す。彼のギッヂングスの社会学に「ソシアス」(Socius)という語があるが、これは「社会に立って、社会にいる人」の意である。実にその通りで、いやしくも人間がこの世に在る以上は、決して孤立していられるものでない。人[#「人」に白丸傍点]という字を見ても、或る説文学者の説には、倒れかける棒が二本相互に支う
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