先に車夫を鄭重に待遇するようにならば、世人は好んで車夫になるだろう、さすれば車夫に学問を授けても、車夫たるを厭《いと》うものが決してないようになるだろうと言ったが、学者もまたその通りで、とにかく学者を鄭重にすることをせねばならぬ。日本に於ては、或る事に就いては、いくらか学者を鄭重にする風があるけれども、概して鄭重にはしない。ちょっと鄭重にするのはどういうことかというと、先ずあの人は学者であるといえば、ちょっと何かの会へ行っても、上席に座らせるような形式的のことをする。けれどもまた一方に於ては、どんな学問をしていても、学問にはそれぞれ専門のあるものだが、それを専門に研究することを許さない。少しく専門に毛が生えて来ると、こちらからもあちらからも引張りに来て、「おれの所へ来てくれ」という。「イヤおれはこういう学問をするつもりだから行けない」というと、「目下天下多事だ、是非君の手腕に拠《よ》らなければならぬ。君のような人はもうその上学問をする必要がない、俸給はこれだけやるから」などといって誘い出すのである。そうすると本人もツイその気になって、折角《せっかく》やり掛けた専門の学問を打捨ててしまい、ノコノコとその招聘《しょうへい》に応じて、事務官とか、教育家とかいう者になってしまうのである。これは学者の方でも、意思が少しく薄弱であるか知れぬが、また一方からいえば、学者をちょっと鄭重にするようでその実虐待するのである。果して鄭重にするならば、「月給は沢山にやろう、寐ていて本を読むなりどうなり、勝手にするが宜い、お前の思う存分に専門の学問を研究しろ」といわねばならぬ。彼の露西亜の学者みたようにあってこそ、初《はじめ》て真の専門学者が出来るのであるが、今日の日本では中々そうは行かない。
 最後の目的、即ち教育の第五[#「第五」に白丸傍点]の目的に就いて一言せん。これは少しく異端説かも知れないが、僕の考うるところに拠れば、教育はいうに及ばず、また学問とは、人格を高尚にすることを以て最上の目的とすべきものではないかと思う。然るに専門学者にいわせると、「学問と人格とは別なものであれば、学問は人格を高むることを目的とする必要がない。他人より借金をして蹈倒そうが、人を欺《だま》そうが、のんだくれ[#「のんだくれ」に傍点]になってゴロゴロしていようが、己れの学術研究にさえ忠義を尽したら宜いじゃな
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