これは何のためであるか、乃《すなわ》ち謂《い》わば国家の飾りだ。「こういう学者はおれの国にしかない、他に何処《どこ》にもあるまい」と世界に誇れる。即ち波斯の古代文学に就いて、この人が専売特許を得ているのである。そういう飾りの人物だから、一ヶ年三万円くらいの俸給を遣っても安いものだ。日本では利休の古茶碗を五千円、六千円というような金を出して買求め、これを装飾にしているものがある。これは国の風習だから仕方がないけれど、これよりも学者を国家の装飾としている方が宜《よ》かろうかと思う。学問というものは国の飾とでも言うべきものである。また個人より言えば、各自日常の談話に於ても、自然|其所《そこ》に装飾が出来て万事円滑に行くのである。故に教育、あるいは学問の目的としてこの装飾を重んずることは、至当な事であろうと思う。
 第四[#「第四」に白丸傍点]の目的は一見したところ、道楽あるいは装飾にやや似ているが、大分にその主眼が違うのである。即ち第四の目的は真理の研究である。ちょっと難かしいようであるが、別に説明の要もない。無論先きに言った職業とは違う。職業を目的とする者ならば、これは果して真理だか何だか、そんなことはどうでも構わぬ、金にさえなれば宜いのである。けれども学者と称するものが学問をする時分に、これが果して真理であるかないかということを研究するのは、これは高尚な……最も高尚とは言われぬけれども、マア今まで述べたところのものよりは遥かに高尚であろうと思う。しかしこれもよほど余裕がなければ出来ぬことである。日本で言おうならば、大学という所は、学理を攻究する最高の場所である。然るに実際はどうかというと、それは随分学理の攻究も怠らないが、学理の攻究ばかりするには何分俸給が足らない。学問するには根気が大切である、根気を養うには食物も美味なる物を食わねばならぬ、衣服も相当なるものを着ねばならぬ。冬は寒い目をしてはならぬ、夏は暑い目をしてはならぬ。なるたけ身体を壮健にしておかねば学問が出来るものではない、それには金が入る。然るに今日の有様ではいわゆる学者の俸給は、漸《ようや》く生命を継ぐだけに過ぎぬ。かかる訳であるから、学問の攻究、真理の研究などということは、学問の真個の目的とでもいうべきものであるけれども、実はあまり日本に行われていない。ドウかその真理の攻究の行われるようにしたいものだ。
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