議論をしても、ちょっと昔の歌を入れてみたり、あるいは古人の言行を挙げてみたりすると、議論その者が別にどうなるものではなくとも、ちょっと装飾が附いて、耳で聞き、目で見て甚だ面白くなるのである。その装飾がなくして、初から要点ばかりいっては心に入りようが悪い。世間の人が朝出会って「お早う」というのも、一種の飾のようなものだ。朝早いときには早いのであるから、別に「お早う」という必要がない、黙っておれば宜かろうに、そうではない。「お早う」という一言で以って双方の間がズット和《やわら》ぐ。今まで何だか変な面《つら》だと思った人の顔が、「お早う」を言ってからは、急に何となく打解けて、莞爾《にこや》かなように異《ちが》って来る、即ちその人の顔に飾が附いたようになる。そうするとお互いの交際が誠に滑かに行くのである。
 露国の聖彼得堡《サンクトペテルブルグ》に一人の有名な学者がある。その人は波斯《ペルシア》教の経典『ゼンダ、アヴェスタ』に通じ、波斯古代の文学に精しく、しかして年齢は八十ばかりになっているそうだ。この人が聖彼得堡の大学では一番に俸給が高い、ところが波斯の古代文学の事だから研究希望者がない。それで先生は教場に出て講義をするけれど、これを聴く学生が一人もないために、近頃は大学に出ないで、自分の家にばかりいるそうだ。それなら月給はどうするかというと、それは満遍なく取っているそうだ。愛媛県知事安藤謙介君は露西亜《ロシア》学者で、あの人が露国の日本公使館にいた時分、露国の文部大臣であったか、とにかく位地の高い役人に会った時に、「かの某はエライ学者だとかいうけれども、その講義を聴く者が少しもないそうだ。然るにその俸給は一番高い、幾千という年俸を取っているそうだが、随分無駄な話で、国の費《つい》えではないか」と言った。そうするとその役人の曰く、「どうして、あれは安いものである。波斯の古代文学を研究している者は、欧羅巴《ヨーロッパ》に彼一人しかない。ところで偶々《たまたま》十年に一度とか、五年に一度とか、波斯古代の文学に就いて取調べる事があり、研究を要したり、あるいは学者の間で議論でも起るとなると、その事に精通したものが他にないから、直ぐに先生の判断で定まる。して見れば一ヶ年何千円の年俸を遣《や》っておいたところで安いものだ」といったそうであるが、その某という学者はただそれだけの御用だ。
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