国民は自由である。あるいは種々の法律があって、生命財産の安全を保っているけれど、教育の遣り方を見ると実に情ない。先ず子供が生れる、脊に負われる、足を縛られる、血の循環が悪くなる、あるいは首が曲る。太陽の光線が直接に頭を射て脳充血が起る、またその光線が眼の中に入って眼を痛める。あるいは乳を無暗に哺《ふく》ませ過ぎて胃腸病を多くする。日本に眼病や胃腸病の多いのは幼児の養育法を過《あやま》っているからである。また足を縛るから足の発育が出来ないで、皆短い足になってしまう。生れたときからそういう養育法をやり、そうして小学校へ入学してからでも、何か面白いことをいって笑う間に学問をさせるとか、あるいは筋肉を動かして、身体の発達を促がせば宜いが、そういうことはない。もっとも近来は小学校の教授法も大分に改良が出来たけれど、とにかく子供の心中には、学問は苦しいものだ、辛いものだという観念が注入されている。その筆法で大学まで来るが、その間子供が何か書くときでも、面白いと思って書きはしない、いやだいやだと思って書いている。即ち智識を得るのはなるほど蛍雪の功だと思うようになるはずだ。
 もし学校に於ける教育法の改良が急に出来ぬならば、せめて子供が家庭にいる間でも、智識が面白くその頭脳に注入されるようにしたい。父母が面白おかしく不知不識《しらずしらず》、子供に智識を与えるようにしたい。僕は子供の時に頭髪を結うてもらった、八歳の頃までは髪を結ったのであるが、時々他人から髪を梳《す》いてもらうと実に痛くて堪らない。その痛さ加減は今でも忘れられない。あれが今日の教授法である。けれどもお母さんが梳くと痛くない、どんなに髪が縺《もつ》れていても痛くも何ともなかった。家庭の教育とはこういうものではなかろうかと思う。同じ事でも母親は柔かくやるから痛くない、まるでお乳でも哺んでいる心地がした。ところが母親でない人、即ち今日の先生がやると、無暗に酷くグウーッとやる。……そういう訳で学問は辛いものだという観念があるから、学校を卒業すればもう学問は御免だ、真平《まっぴら》御免を蒙《こうむ》りたいという考が起る。ましてや道楽のために学問をするなどという考は毛頭《もうとう》起る理由がない。僕の望む事は家庭に於て、女子供に雑誌でも見せる折には、譬えば「ラヂューム」というものは、仏蘭西《フランス》のこういう人が発明したもの
前へ 次へ
全23ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
新渡戸 稲造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング