うな書物は出ているけれど、『学問道楽』という本は未だ出ていない。そういうものが出ねばいかぬ。村井さんももう少し世の中が進んだならば、『学問道楽』というものを書くだろうか。私は村井さんの存命中に、そういう日の来《きた》らんことを希望するのである。
 学問の一つの目的として道楽を数えることも、決して差支えなかろうと思う。ちょっと聞くと差支えるように思われるけれども、意味の取りように由っては実際差支えがない。あるいは道楽を目的として教育するのは、おかしいという人があるかもしれぬが、しかし華族さんの如きは別に職業を求むる必要がない。そういう人は道楽に学問するのが大《おお》いに必要であろうと思う。否、華族さんでなくても、一般に道楽に学問をしたら宜い。即ち学問の研究を好むようにならねばいかぬ。それのみならず、我々が家庭に在《あ》って子弟を養育する際にも、学問道楽を奨励したい。然るに今日では、学問は中々|楽《たのし》みどころでない、道楽どころではない、よほどうるさい、頗る苦しいもののように思われている。それというのは、昔は雪の光で書物を読んだとか、蛍を集めて手習をしたとか、いわゆる学問は蛍雪の功を積まねばならぬ、よほど辛いものであるという教になっているからである。しかし僕とても、学問は骨を折らずに出来るものだとはいわない。ただ面白半分にやったら、その内に飛び上って行くものだとはいわない。学問や研究は中々頭脳を費さねばならぬ、眠い時にも睡《ねむ》らずに励まねばならぬ。けれどそれと同時に学問は面白い、道楽のようなものであるという観念を一般の人に与えたい。家庭に於いても、アハハハと笑う間に、子弟をして学問の趣味を覚《さと》らせることが必要である。
 今日小学ではどういう風に教育しているかというと、大体小学校の教授法が面白くない。子供は低い腰掛をズラリと並べ、其所《そこ》に腰をかけている。先生は高い所に立っている。子供が腰掛の上に立って、先生が下に坐っていても、まだ子供の方が低いのに、先生が高い所に立つのだから、先生ばかり高く見える。即ち学問は高台より命令的に天降《あまくだ》る、生徒は威圧されて学問を受ける。それもマア宜いが、そうしてただ窮屈に儀式的に教えているので、面白おかしく智識を与えることがない。一体日本の子供ほど可哀相《かわいそう》なものはあるまいかと思う。我国には憲法があって、
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