る所の、温い情と、高き人格とを養成しなかつたならば、如何にも論理學を刻み出す器械に相違ない。さう云ふ教育法を施すと、教育された人が成長の後に、何故おれ見たやうな者を造つたかと、教師に向つて小言を云ひ、先生を先生とも思はぬやうになり、延いては社會を敵視するに至る。故にかゝる教育法は、即ち先生を敵と思へと教ふるに等しいものである。
それから第三[#「第三」に傍点]の教育法を説明する例話は、ゲーテの著はしたる『フアウスト』である。此戯曲の中に、フアウストなる大學者が老年に及び、人生の趣味を悉く味つた所で、一つ己れの理想とする人間を造つて見たいと思ひ、終に『ホムンキルス』と云ふ一個の小さい人間を造つた話がある。其の人間は徳利の中に這入つて居るので、其の徳利の中から之を取出して見ると、種々の事を演説したり、議論したりする。而してフアウストは自分で深く味ひ來つて、人間に最も必要なるものと認めたる温き情愛をも、其の『ホムンキルス』の胸の中に吹込んだのである。そこで其の『ホムンキルス』は能く人情を解し、遖れ人間の龜鑑とすべき言行をするので、之を見る人毎に讚歎して措かず、又た之を造つたるフアウストも、
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