いて居る。即ち智識を得るのは成程螢雪の功だと思ふやうになる筈だ。
若し學校に於ける教育法の改良が急に出來ぬならば、切めて子供が家庭に居る間でも、智識が面白く其頭腦に注入される樣にしたい。父母が面白をかしく不知不識、子供に智識を與へるやうにしたい。僕は子供の時に頭髮を結うて貰つた、八歳の頃迄は髮を結つたのであるが、時々他人から髮を梳いて貰ふと實に痛くて堪らない。其痛さ加※[#「冫+咸」、232−下−8]は今でも忘れられ無い。あれが今日の教授法である。けれどもお母さんが梳くと痛く無い、どんなに髮が縺れてゐても痛くも何とも無かつた。家庭の教育とは斯う云ふものでは無からうかと思ふ。同じ事でも母親は柔かくやるから痛くない、丸でお乳でも哺んで居る心地がした。ところが母親で無い人、即ち今日の先生がやると、無暗に酷くグウーツとやる。……さう云ふ譯で學問は辛いものだと云ふ觀念があるから、學校を卒業すればもう學問は御免だ、眞平御免を蒙りたいと云ふ考が起る。ましてや道樂の爲に學問をするなどゝ云ふ考は毛頭起る理由が無い。僕の望む事は家庭に於て、女子供に雜誌でも見せる折には、譬へば『ラヂユーム』と云ふものは、
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