今日では、學問は中々樂みどころで無い、道樂どころではない、餘程うるさい、頗る苦しいものゝやうに思はれて居る。それと云ふのは、昔は雪の光で書物を讀んだとか、螢を集めて手習をしたとか、所謂學問は螢雪の功を積まねばならぬ、餘程辛いものであると云ふ教になつてゐるからである。併し僕とても、學問は骨を折らずに出來るものだとは云はない。たゞ面白半分にやつたら、其内に飛び上つて行くものだとは云はない。學問や研究は中々頭腦を費さねばならぬ、眠い時にも睡らずに勵まねばならぬ。けれどそれと同時に學問は面白い、道樂のやうなものであると云ふ觀念を一般の人に與へたい。家庭に於いても、アハヽヽと笑う間に、子弟をして學問の趣味を覺らせることが必要である。
 今日小學では何う云ふ風に教育して居るかと云ふと、大體小學校の教授法が面白くない。子供は低い腰掛をズラリと並べ、其所に腰をかけて居る。先生は高い所に立つて居る。子供が腰掛の上に立つて、先生が下に坐つて居ても、まだ子供の方が低いのに、先生が高い所に立つのだから、先生ばかり高く見える。即ち學問は高臺より命令的に天降る、生徒は威壓されて學問を受ける。それもマア宜いが、さう
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