は一切無いと云ふ話である。それならどんな事をしてお出でになるか、能くは分らぬ。酒席で漢詩でも作らるゝが關の山であらう。して見ると道樂の爲に學問をすることは、日本では未だ中々高尚過ぎるのである。其一つの證據には、『女道樂』、『酒道樂』、『食道樂』と云ふやうな書物は出て居るけれど、『學問道樂』と云ふ本は未だ出てゐない。さう云ふものが出ねばいかぬ。村井さんも最う少し世の中が進んだならば、『學問道樂』と云ふものを書くだらう乎。私は村井さんの存命中に、さう云ふ日の來らんことを希望するのである。
學問の一つの目的として道樂を數へることも、决して差支へなからうと思ふ。一寸聞くと差支へるやうに思はれるけれども、意味の取りやうに由つては實際差支へが無い。或は道樂を目的として教育するのは、をかしいと云ふ人があるかもしれぬが、併し華族さんの如きは別に職業を求むる必要がない。さう云ふ人は道樂に學問するのが大いに必要であらうと思ふ。否、華族さんで無くても、一般に道樂に學問をしたら宜い。即ち學問の研究を好むやうにならねばいかぬ。それのみならず、我々が家庭に在つて子弟を養育する際にも、學問道樂を奬勵したい。然るに
前へ
次へ
全43ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
新渡戸 稲造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング