尚とは言はれぬけれども、マア今まで述べた所のものよりは遙かに高尚であらうと思ふ。併し之も餘程餘裕がなければ出來ぬことである。日本で言はうならば、大學と云ふ所は、學理を攻究する最高の場所である。然るに實際は何うかと云ふと、それは隨分學理の攻究も怠らないが、學理の攻究ばかりするには何分俸給が足ら無い。學問するには根氣が大切である、根氣を養ふには食物も美味なる物を食はねばならぬ、衣服も相當なるものを着ねばならぬ。冬は寒い目をしてはならぬ、夏は暑い目をしてはならぬ。成るたけ身體を壯健にして置かねば學問が出來るものでは無い、それには金が入る。然るに今日の有樣では所謂學者の俸給は、漸く生命を繼ぐだけに過ぎぬ。かゝる譯であるから、學問の攻究、眞理の研究などゝいふことは、學問の眞個の目的とでも云ふべきものであるけれども、實は餘り日本に行はれて居ない。ドウか其の眞理の攻究の行はれるやうにしたいものだ。先に車夫を鄭重に待遇するやうにならば、世人は好んで車夫になるだらう、さすれば車夫に學問を授けても、車夫たるを厭ふものが决して無いやうになるだらうと言つたが、學者も亦た其通りで、兎に角學者を鄭重にすることをせねばならぬ。日本に於ては、或る事に就いては、幾らか學者を鄭重にする風があるけれども、概して鄭重にはしない。一寸鄭重にするのは何う云ふことかと云ふと、先づあの人は學者であると云へば、一寸何かの會へ行つても、上席に座らせるやうな形式的のことをする。けれども亦た一方に於ては、どんな學問をして居ても、學問にはそれ/″\專門のあるものだが、それを專門に研究することを許さない。少しく專門に毛が生えて來ると、こちらからもあちらからも引張りに來て、『おれの所へ來て呉れ』と云ふ。『イヤおれは斯ういふ學問をする積りだから行けない』といふと、『目下天下多事だ、是非君の手腕に據らなければならぬ。君のやうな人はもう其上學問をする必要がない、俸給はこれだけやるから』などゝ云つて誘ひ出すのである。さうすると本人もツイ其の氣になつて、折角やり掛けた專門の學問を打捨てゝしまひ、ノコ/\と其の招聘に應じて、事務官とか、教育家とか云ふ者になつてしまふのである。之は學者の方でも、意思が少しく薄弱であるか知れぬが、又た一方から云へば、學者を一寸鄭重にするやうで其實虐待するのである。果して鄭重にするならば、『月給は澤山にやらう、
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