寐て居て本を讀むなり何うなり、勝手にするが宜い、お前の思ふ存分に專門の學問を研究しろ』と云はねばならぬ。彼の露西亞の學者見たやうにあつてこそ、初て眞の專門學者が出來るのであるが、今日の日本では中々さうは行かない。
 最後の目的、即ち教育の第五[#「第五」に白丸傍点]の目的に就いて一言せん。之は少しく異端説かも知れないが、僕の考ふるところに據れば、教育は云ふに及ばず、又た學問とは、人格を高尚にすることを以て最上の目的とすべきものでは無いかと思ふ。然るに專門學者に云はせると、『學問と人格とは別なものであれば、學問は人格を高むることを目的とする必要がない。他人より借金をして蹈倒さうが、人を欺さうが、のんだくれ[#「のんだくれ」に傍点]になつてゴロ/\して居やうが、己の學術研究にさへ忠義を盡したら宜いじやないか』と云ふ者もある。或は又た、『自分のやつて居る職務に忠勤する以上は、ナニ何所へ行つて遊ばうが、飮まうが、喰はうが、それは論外の話だ』といふ議論もある。學問の目的は、第四に述べた所のもの、即ち眞理の研究を最も重しとすればそれで宜い。人間はたゞ眞理を攻究する一の道具である、それでもう學問の目的を達したものである、人格などは何うでも宜いと云ふ議論が立つならば、即ち何か發明でもしてエライ眞理の攻究さへすれば、人より排斥されるやうなことをしても構はぬと云ふことになるが、人間即ち器ならず、眞理を研究する道具ではない。君子は器ならずと云ふことを考へたならば、學問の最大且つ最高の目的は、恐らく此の人格を養ふことでは無いかと思ふ。それに就いては、たゞ專門の學に汲々として居るばかりで、世間の事は何も知らず、他の事には一切不案内で、又た變屈で、所謂學者めいた人間を造るのではなくて、總ての點に圓滿なる人間を造ることを第一の目的としなければならぬ。英國人の諺に“Something of everything”(各事に就いての或事)と云ふがある。或人は之を以て教育の目的を説明したものだと言ふた。之は何事に就いても何かを知つて居ると云ふ意味である。專門以外の事は何も知らないと云つて誇るのとは違ふ。然るに今此語の順序を變へて見れば、“Everything of something”(或事に就いての各事)と云ふことになる。即ち一事を悉く知るのである。何か一事に就いては何でも知つて居ると云ふ意である。世
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