、之を聽く學生が一人も無い爲に、近頃は大學に出ないで、自分の家にばかり居るさうだ。それなら月給は何うするかといふと、それは滿遍なく取つて居るさうだ。愛媛縣知事安藤謙介君は露西亞學者で、あの人が露國の日本公使館に居た時分、露國の文部大臣であつたか、兎に角位地の高い役人に會つた時に、『彼の某はエライ學者だとか云ふけれども、其講義を聽く者が少しも無いさうだ。然るに其俸給は一番高い、幾千と云ふ年俸を取つて居るさうだが、隨分無駄な話で、國の費えでは無いか』と言つた。さうすると其役人の曰く、『どうして、あれは安いものである。波斯の古代文學を研究して居る者は、歐羅巴に彼一人しか無い。ところで偶々十年に一度とか、五年に一度とか、波斯古代の文學に就いて取調べる事があり、研究を要したり、或は學者の間に議論でも起るとなると、其事に精通したものが他に無いから、直ぐに先生の判斷で定まる。して見れば一ヶ年何千圓の年俸を遣つて置いた所で安いものだ』と云つたさうであるが、その某と云ふ學者は唯だそれだけの御用だ。之は何の爲であるか、乃ち謂はゞ國家の飾りだ。『斯う云ふ學者はおれの國にしかない、他に何處にもあるまい』と世界に誇れる。即ち波斯の古代文學に就いて、此人が專賣特許を得て居るのである。さう云ふ飾りの人物だから、一ヶ年三萬圓くらゐの俸給を遣つても安いものだ。日本では利休の古茶碗を五千圓、六千圓と云ふやうな金を出して買求め、之を裝飾にして居るものがある。是れは國の風習だから仕方がないけれど、之れよりも學者を國家の裝飾として居る方が宜からうかと思ふ。學問と云ふものは國の飾とでも言ふべきものである。又た個人より言へば、各自日常の談話に於ても、自然其所に裝飾が出來て萬事圓滑に行くのである。故に教育、或は學問の目的として此の裝飾を重んずることは、至當な事であらうと思ふ。
第四[#「第四」に白丸傍点]の目的は一見した所、道樂或は裝飾に稍似てゐるが、大分に其の主眼が違ふのである。即ち第四の目的は眞理の研究である。一寸難かしいやうであるが、別に説明の要も無い。無論先きに言つた職業とは違ふ。職業を目的とする者ならば、之は果して眞理だか何だか、そんなことはどうでも構はぬ、金にさへなれば宜いのである。けれども學者と稱するものが學問をする時分に、之が果して眞理であるか無いかと云ふことを研究するのは、是は高尚な……最も高
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