イボタの虫
中戸川吉二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)一寸《ちよつと》の
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)長い間|手間《てま》どつた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を
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無理に呼び起された不快から、反抗的に、一寸《ちよつと》の間《ま》目を見開いて睨《にら》むやうに兄の顔を見あげたが、直《す》ぐ又ぐたりとして、ヅキンヅキンと痛む顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を枕へあてた。私は、腹が立つてならなかつたのだ。目は閉ぢはしてゐても。枕許《まくらもと》に立つてゐて自分を監視してゐるであらう兄の口から、安逸を貪《むさぼ》ることを許さないと云ふ風な、烈《はげ》しい言葉が、今にも迸《ほとばし》りさうに思はれてゐたのだ。
兄は併《しか》し、急《せ》き立てて私の名を呼びつづけようとはしなかつた。もう私が目を醒《さま》したのだと知ると、熟睡のあとの無感覚な頭の状態から、ハツキリした意識をとり戻し得るだけの余裕を、十分私に与へてやると云ふ風に暫《しばら》く黙つてゐた。で、流石《さすが》に私も寝床に執着してゐる自分が恥ぢらはれて、目を見開いて了《しま》はうとするのだつたが、固く閉ぢられてゐた私の瞼《まぶた》は、直ぐには自分自身の自由にもならなかつた。ともすると兄の寛大に甘えて危く眠り落ちさうになつてゐた。
「起きろよ」
突然に又兄の鋭い声がした。劫《おびや》かされたやうに、私は枕から顔を放して、兄の顔を視守《みまも》つた。二言三言眠り足らない自分を云ひ訳しようとでもする言葉が、ハツキリした形にならないまま鈍い頭の中で渦《うづ》を巻いてゐた。
「いま――何時なの」
やがて、かう訊《き》いたのだ。が、併し、兄はそれには答へなかつた。私は一寸てれて机の上の置時計を見た。七時半であつた。
「二時間位しか、眠りやしない……」
私は半分寝床から体を這《は》ひ出しながら、口を尖《とが》らせながら、呟《つぶや》くやうに云つた。さう云ふ私を、兄は非難しようとさへしなかつた。
「兎《と》も角《かく》起きろ。――起きて、着物を着かへてキチンと帯をしめろ、たいへんなことになつたんだ」
かう、妙に沈んだ声で云ふのだつた。これは少し何時《いつ》もと様子が違つてゐると思つて、私はかすかな不安を覚えながら、節々の痛む体を無理に起して寝床から放れた。――帽子も被《かぶ》つたまま、オーバコートも着たままの、役所へ行きがけらしい兄の姿をもう一度よく視守つて、何か云はうとしてゐると、
「美代が悪いんだ」と、兄は怒つてでもゐるやうな恐《こは》い顔をして、押《お》つ被《かぶ》せるやうな強い口調で云つた。
「姉さんが?――姉さんには昨日僕あつたんだけれども……」
「昨夜一と晩で急にヒドく悪くなつたんだ。肺炎だと云ふんだが、妊娠中のことでもあるし、もう駄目らしい。今日午前中持つかどうか……」
キツパリと、あまり強い調子で云ふので一寸の間私は、兄の言葉に反問することが出来ずにゐた。さうして、心の中で兄を憎らしいものに思つてゐた。
「そんなことはありはしない。そんなことつてありはしない……」
暫くして、私は兄を責めでもするやうに、ワクワクしながら呟いた。けれども、興奮して、黙つて、ぼんやり突つ立つてゐる兄の顔を視守つてゐるうちに、私は、自分の言葉に少しも権威のないことを思はない訳に行かなくなつた。兄の言葉を信じない訳に行かなくなつた。さうして、不意に胸が塞《ふさ》がつてきた。――四五日前から、風邪《かぜ》をひいて寝てゐると云ふ姉には、昨日、原町の家へお金を貰《もら》ひに行つた時に、母から注意されたので、かへりに私は木村によつて姉を見舞つたのだ。その時、別に重態と云ふやうな様子は少しもありはしなかつた。それに……。
「医者が、もう駄目だと云ふの」
私は出来るだけ、気持を冷静に保つてゐようと努めながら訊いた。
「あゝ、さう云ふんだ」と兄は力のない声で、「俺《おれ》は、これから熱海《あたみ》のお父さんのところへと花子のところへと電報を打ちに行くんだ。そして、それから、もう一度医者に酸素吸入を頼んでくるつもりでゐるが、お前にも、頼みがあるんだ」
私は返事をしなかつた。着物を着かへたら直ぐ、木村へ馳《か》けつけてみようと思つてゐたのだ。
「――広小路へ行つてね、イボタの虫つてものを買つて来て貰ひたいんだ」
「イボタの虫つて……」
「俺もよく知らないんだがね」と、兄は云ひ憎さうな調子で、「売薬だがね、好く利《き》く薬なんださうだ。母《か》あさんが是非買つて来いと云ふんだから、買つて行けよ」
「だつて、そんなもの……」
肺炎で、妊娠してゐて、医者がもう駄目だと云つてゐると云ふ病人に、酸素吸入をやつてゐると云ふ病人に、下らない売薬なんて買つて行つたところでどうなるものかと、私は思はずにゐられなかつた。私は昨日木村へ寄つた時に、姉の病気を軽くみてろくに側にもゐなかつた自分が悔いられた。昨日に限つて、原町の家に宿《とま》らずにゐた自分が悔いられた。母にお金を貰つて、好い気になつて、呑気《のんき》に放埒《はうらつ》にすごした昨夜の自分が悔いられた。佐治を誘つて、十二時近くまで切通しの鳥屋で酒を飲んでゐたり、宿へ戻つてからも、隣室の谷崎潤一郎氏に誘はれて、竹久夢二氏や渡辺氏などと、明け方近くまで勝負事をしてすごした自分が悔いられた。
「でもね、買つて行つた方が好いだらう。母あさんがさう云ふんだから」
兄は、無理に強《し》ひると云ふ風には云はなかつた。私は兄を気の毒に思はない訳に行かなくなつた。普段から、私などとは比較にもならないほどに、売薬の効果などを信用しようとしない科学者の兄が、意固地《いこぢ》に自分を守らうとはしずにゐる。母の、あわてふためいてヒステリックになつてゐる様子なども思ひやられて、こんな場合に兄と、口論めいた口を利くのがイヤだと私は思つた。
「買ひに行つても好いけど……」
私は、急いで着物を着かへながら、何時《いつ》もの横着で一寸の間使に行き渋つてゐたのだと云ふ風に、兄の手前を装つた。
「行くかね」と、兄は微笑して、「――行くんならね、普通の生薬屋《きぐすりや》へ行つても駄目なんださうだ。広小路の先の、たしか黒門町あたりに、ゐもり[#「ゐもり」に傍点]の黒焼屋が沢山|列《なら》んでゐるね、あそこで売つてゐるんださうだ」
「ゐもり[#「ゐもり」に傍点]の黒焼屋だつて……。イボタの虫つて云ふもんなんだね」
私は、兄と目を見合して寂しく笑はずにはゐられなかつた。一瞬間、私の胸には、姉の危篤といふことから来る重ツ苦しい圧迫が、影を潜めてゐた。姉のために、ゐもり[#「ゐもり」に傍点]の黒焼屋へ、時代錯誤の薬を買ひに行くと云ふ風な古めかしい使が、何か淡い哀愁を誘はれる好ましい仕草にも思はれたのだつた。
「ぢやそれを買つて、直ぐ木村へ行つてみませう。兎も角一緒にここを出ませう」
「うん。さうしよう。寒くないやうにして行かなくてはいけないぜ」
部屋を出て行かうとする私へ、背後《うしろ》から兄は、故意《わざ》と乱暴に外套《ぐわいたう》をかけてくれた。センチメンタルな愛情の表現を恥ぢると云ふ風に……。さうして私は兄と連れ立つて長い階段を下りて、菊富士ホテルを出た。
宿の前には、一昨日の晩から昨日へかけて降つた雪が、根雪になつたまま陽《ひ》を受けて弱々しく光つてゐた。私は飲み過ぎと寝不足とで頭がクラクラしてゐた。顔中の皮膚が硬張《こはば》つて、頬《ほ》つぺたが妙に突つ張りでもするやうな不愉快な気持でゐた。ぼんやり立つて、玄関で編上げの靴の紐《ひも》を結んでゐる兄を待つてゐたが、待つてゐると、何かしなければならないことが沢山あると云ふやうな、苛々《いらいら》した気持になつてきた。居ても立つてもゐられなくなつたのだ。――今日お昼時分に印刷屋から、「新思潮」の二月号が刷りあがつて来るはずである。佐治に、発送の手伝ひをすると約束をして置いたのだがと、それが一番重大な気がかりでもあつたやうに、思ひ出すと放棄《うつちや》つては置けないやうな気になつた。私は一寸の間迷つてゐたけれども、玄関に引返して、「用があつて佐治のところへよるから」と兄に云ひ置いて、直ぐ近所の、素人《しろうと》下宿の二階に住んでゐる佐治のところへ馳《か》けつけた。
その朝に限つて、到底まだ寝てゐることだらうと思つた佐治が、起きてゐた。もうキチンと座敷の中がとり片づけられて居、トランプをするために買つたと云ふ大きな一閑張《いつかんば》りの机が、座敷の真ン中へ、彼の花車《きやしや》な体をぐたりと靠《もた》せかけさせるために持ち出されてゐた。彼はパイプを啣《くは》へて、悠々《いういう》と青い煙を吐いてゐた。
「やあ」
佐治は、座敷の入口に立つてゐる私の姿を認めると、快活に呼びかけた。
私は彼の口から、彼の幸福さうな赤い顔に似合しいやうな浮々した言葉が、無造作《むざうさ》に浴びせかけられることを思ふと堪《たま》らない気がされた。昨夜の放埒《はうらつ》な記憶に触れずにすむためには自分の方から、何か先に口を切らねばいけないと思つて、暫《しばら》くの間云ふ可《べ》き言葉を頭の中で整理してゐた。
「……今日、雑誌の発送の手伝ひをするつて約束しておいたがね、今一寸前、兄貴がやつて来て、直ぐこれから家へ行かなくてはならない。木村の姉さんがね、死にさうなんだ。面倒だらうけど、雑誌の発送は君一人でやつてくれ給へ」
私は、佐治の顔を視守《みまも》りつづけながら、虚《うつろ》になつてゐる頭から一言一言絞り出すやうに、やつと、それだけ云ひ終つたのだ。云ひ終ると、一瞬間、佐治の赤い顔の皮膚が、目のふちと耳との部分を残して白くなつたやうに感じられた。佐治は黙つてゐた。私も黙つて彼の顔を視守りつづけた。が、到底自分の悲しみと関係のない彼なのだと思ふと、憎らしくなつて、もう何も外に云ふことはないと承知してゐながら、私は暫くの間ぢつと突つ立つたまま動かなかつた。ふと、雑誌のことが思はれて来る。今月号へ載せた、「犬に顔なめられる」と云ふ自分の小説の、後半の大事な部分が少しも書けてゐないことが思はれた。それは、四五年前の自分の、ヒドい放蕩《はうたう》な生活の中から自殺しそくなつた経験をぬきとつて、高潮《クライマックス》だけを手記と云ふ風な形式で書いたつもりであつたが、うまく行かなかつたので、その材料を書くことを期待してゐてくれた里見さんや野村などに、私は合はす顔がない気がされた。それで佐治に向つて弁解めいたことを云はうとしたが、云はうと思ふと、それが又馬鹿らしい気がし出してきて止《や》めた。
「発送は僕が一人でやつて置くよ。すぐ、うちへ行つたら好いだらう」
不意に、佐治にかう云はれて、私は又胸をワクワクさせた。小説のことなどを思ひ出したのが恥かしくなつた。ぐづぐづしてゐるうちに、ヒヨツと若《も》し姉が死んで了《しま》ひでもしたらどうしよう。と、私はそはそはして来て、何か出鱈目《でたらめ》な言葉をぶつぶつ呟《つぶや》きながら、佐治に挨拶《あいさつ》もしずに、あわてて階段を下りた。
戸外へ出ると、雪の上を渡つて来た冷たい風が、スーツと頬《ほほ》を吹いた。白い路《みち》の行手に、帽子を眼深《まぶか》に被《かぶ》つてうなだれたまま、オーバコートのポケットに手を入れてしよんぼり立つてゐる、兄のヒヨロ高い姿が目についた。私が追ひつくと、兄も列《なら》んで歩き出した。女子美術の前をだらだら下りて菊坂へ出ようとしたのである。
「郵便局は、ここからだと何処《どこ》が一番近いだらうね」
兄は、体を私へすりよせるやうにして云つた。
「さア、真砂町《まさごちやう》の停留所前にあるが……」
私は悲しい気持になつてゐた。熱海に避寒してゐる心臓の悪い父や、
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