んだ。面倒だらうけど、雑誌の発送は君一人でやつてくれ給へ」
 私は、佐治の顔を視守《みまも》りつづけながら、虚《うつろ》になつてゐる頭から一言一言絞り出すやうに、やつと、それだけ云ひ終つたのだ。云ひ終ると、一瞬間、佐治の赤い顔の皮膚が、目のふちと耳との部分を残して白くなつたやうに感じられた。佐治は黙つてゐた。私も黙つて彼の顔を視守りつづけた。が、到底自分の悲しみと関係のない彼なのだと思ふと、憎らしくなつて、もう何も外に云ふことはないと承知してゐながら、私は暫くの間ぢつと突つ立つたまま動かなかつた。ふと、雑誌のことが思はれて来る。今月号へ載せた、「犬に顔なめられる」と云ふ自分の小説の、後半の大事な部分が少しも書けてゐないことが思はれた。それは、四五年前の自分の、ヒドい放蕩《はうたう》な生活の中から自殺しそくなつた経験をぬきとつて、高潮《クライマックス》だけを手記と云ふ風な形式で書いたつもりであつたが、うまく行かなかつたので、その材料を書くことを期待してゐてくれた里見さんや野村などに、私は合はす顔がない気がされた。それで佐治に向つて弁解めいたことを云はうとしたが、云はうと思ふと、それが又馬鹿らしい気がし出してきて止《や》めた。
「発送は僕が一人でやつて置くよ。すぐ、うちへ行つたら好いだらう」
 不意に、佐治にかう云はれて、私は又胸をワクワクさせた。小説のことなどを思ひ出したのが恥かしくなつた。ぐづぐづしてゐるうちに、ヒヨツと若《も》し姉が死んで了《しま》ひでもしたらどうしよう。と、私はそはそはして来て、何か出鱈目《でたらめ》な言葉をぶつぶつ呟《つぶや》きながら、佐治に挨拶《あいさつ》もしずに、あわてて階段を下りた。
 戸外へ出ると、雪の上を渡つて来た冷たい風が、スーツと頬《ほほ》を吹いた。白い路《みち》の行手に、帽子を眼深《まぶか》に被《かぶ》つてうなだれたまま、オーバコートのポケットに手を入れてしよんぼり立つてゐる、兄のヒヨロ高い姿が目についた。私が追ひつくと、兄も列《なら》んで歩き出した。女子美術の前をだらだら下りて菊坂へ出ようとしたのである。
「郵便局は、ここからだと何処《どこ》が一番近いだらうね」
 兄は、体を私へすりよせるやうにして云つた。
「さア、真砂町《まさごちやう》の停留所前にあるが……」
 私は悲しい気持になつてゐた。熱海に避寒してゐる心臓の悪い父や、
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