けないぜ」
部屋を出て行かうとする私へ、背後《うしろ》から兄は、故意《わざ》と乱暴に外套《ぐわいたう》をかけてくれた。センチメンタルな愛情の表現を恥ぢると云ふ風に……。さうして私は兄と連れ立つて長い階段を下りて、菊富士ホテルを出た。
宿の前には、一昨日の晩から昨日へかけて降つた雪が、根雪になつたまま陽《ひ》を受けて弱々しく光つてゐた。私は飲み過ぎと寝不足とで頭がクラクラしてゐた。顔中の皮膚が硬張《こはば》つて、頬《ほ》つぺたが妙に突つ張りでもするやうな不愉快な気持でゐた。ぼんやり立つて、玄関で編上げの靴の紐《ひも》を結んでゐる兄を待つてゐたが、待つてゐると、何かしなければならないことが沢山あると云ふやうな、苛々《いらいら》した気持になつてきた。居ても立つてもゐられなくなつたのだ。――今日お昼時分に印刷屋から、「新思潮」の二月号が刷りあがつて来るはずである。佐治に、発送の手伝ひをすると約束をして置いたのだがと、それが一番重大な気がかりでもあつたやうに、思ひ出すと放棄《うつちや》つては置けないやうな気になつた。私は一寸の間迷つてゐたけれども、玄関に引返して、「用があつて佐治のところへよるから」と兄に云ひ置いて、直ぐ近所の、素人《しろうと》下宿の二階に住んでゐる佐治のところへ馳《か》けつけた。
その朝に限つて、到底まだ寝てゐることだらうと思つた佐治が、起きてゐた。もうキチンと座敷の中がとり片づけられて居、トランプをするために買つたと云ふ大きな一閑張《いつかんば》りの机が、座敷の真ン中へ、彼の花車《きやしや》な体をぐたりと靠《もた》せかけさせるために持ち出されてゐた。彼はパイプを啣《くは》へて、悠々《いういう》と青い煙を吐いてゐた。
「やあ」
佐治は、座敷の入口に立つてゐる私の姿を認めると、快活に呼びかけた。
私は彼の口から、彼の幸福さうな赤い顔に似合しいやうな浮々した言葉が、無造作《むざうさ》に浴びせかけられることを思ふと堪《たま》らない気がされた。昨夜の放埒《はうらつ》な記憶に触れずにすむためには自分の方から、何か先に口を切らねばいけないと思つて、暫《しばら》くの間云ふ可《べ》き言葉を頭の中で整理してゐた。
「……今日、雑誌の発送の手伝ひをするつて約束しておいたがね、今一寸前、兄貴がやつて来て、直ぐこれから家へ行かなくてはならない。木村の姉さんがね、死にさうな
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