ですね……」
かういつて、車掌は、「かへり」の切符を私へ渡さうとした。珍らしく人の好い車掌のそんな行為までを、その時私は人前で辱《はづか》しめられたやうに感じて、赤くなつてゐた。乗換切符をくれろといふことも出来なくなつて、私は急いでそこを立ち去つた。
私は広小路の四辻《よつつじ》に立つて、品川行か日本橋行の電車が来るのを待つてゐた。暫く待つてゐたが、品川行も日本橋行もなかなかやつて来なかつた。私は苛々《いらいら》して来て、決心して、黒門町の方へと歩き出した。歩き出して暫くしてから、あとから電車が来はしたけれども、引返すのが面倒臭くなつて、そのまま私は歩いて行つた。
路はぬかつて歩き難《にく》かつた。解けかかつてグシヨグシヨした雪路は、気が急《せ》いてゐても、なかなか捗《はかど》らなかつたのだ。
「ヒヨツとすると今時分、姉さんは死にかかつてゐるのぢやないかしら……」
一歩一歩今自分が、姉の家とは反対の方向へ歩いてゐるのだといふ意識が、そんな風に思はせるのだつた。もうずつと遠く姉の家から隔つて了《しま》つた気がした。私は急《せ》いて、馳《か》け出した。
「さうだ。イボタの虫なんていふ妙な薬が、存外不思議な効果をあらはすかも知れない。何とも知れない……」かう思つて、私は一生懸命走つたのだ。が直ぐ走りくたびれて、馬鹿らしくなつて歩いて了つた。ぬかるみへ下駄をとられさうになる度に、兄と一緒に木村へ馳けつけて了はなかつたことが悔いられた。癇癪《かんしやく》が起つてきた。悲しみと癇癪とがゴチヤゴチヤに迫つてきて、私は外套のポケットへやんちや[#「やんちや」に傍点]に手を突つ込んだまま、涙で顔中ぬらぬらと濡《ぬ》れてくるのを拭《ぬぐ》はうともしずに、馳け出してみたり、馬鹿らしくなつて歩いてみたりしてゐた。
やがて、「元祖黒焼」と看板の出てゐる土蔵造りの店が、街《まち》の角に見えた。黒い漆地《うるしぢ》に金文字で書かれた毳々《けばけば》しい看板が、屋根だの軒だのに沢山かけられてゐる。私は劣《けおと》されて、その家には這入《はひ》り切れずに通り過ぎた。が、それでも暫《しばら》く行き過ぎてから、やや小さな「黒焼屋」の前に通りかかつて、やつと決心して、のめり込むやうに店の中へ這入つて行つたのだつた。
店の中には、この寒空に、羽織も着てゐない青んぶくれの番頭がたつた一人ゐた。帳場
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