二三日の間は、気が変になるまで泣き悲しんだ。あとでそのことを知つた兄から、馬鹿な真似《まね》をするものでないと叱《しか》り飛ばされて、余計なことをしなければよかつたと私も悔いたが、只《ただ》併し、自分の書いたものが人に感動を与へ得るといふことに就いては、その時始めて自信を持てたのだつた。其の後、私は野村から鼓舞され、里見さんに励まされたりして、三つ四つの習作をした。一つ一つ小説を書いてみる度に、私も幾らかづつは自分のやつて行かうとする仕事の目先が、明るくなつて行つた。去年の春、小さな単行本を出版した時にも、秋から、佐治や福田たちの仲間に加つて第五次の「新思潮」を始めてからも、私の書いたものが活字になる度に、喜んで読んでくれる極くわづかばかりの読者の中で、姉はもつとも熱心な読者の一人であつた。――これから、私は、沢山によい作品を書いて行かうと思つてゐる。好い作品の出来た時に、私のために喜んでくれる人々の中に、どうして姉を数へずに置けよう。私の愛する周囲の人々の中には、悲しいことに、お金まうけでもしない限りは、喜ばしてあげることの出来ない人もゐるけれども、姉は、姉なら、私が好い作品を書いたことだけでも喜んでくれるのだ。――死んではいけない。今は、何でも彼《か》でも死んではいけない。姉の愛に、好意に、私らしく報い得る時節の来るまでは、どんなにしても死んでくれては困ると、私は駄々ツ子のやうに心に思つた。冷たい真鍮の棒を、ギユツと強く握りしめながら。電車は、不意にずり落ちるやうに、切通しの坂を下つて行つた。
「死んでくれるな」
 私は目をつぶつて、かう又姉のために祈らずにはゐられなかつた。姉に似て神経質な、臆病な、男の子らしくもなく色まで白い達坊のやんちや[#「やんちや」に傍点]な姿などが思ひ浮べられる度に堪《たま》らなくなつて、ほろ、ほろと涙を落した。強い気でゐようと思つても、胸から喉《のど》へ棒でもさされてゐるやうに、迫つてきて、啜《すす》り泣かずにはゐられなかつた。――やがて、広小路の停留場へ来て了つてゐた。
「もし、もす、貴方《あなた》切符を……」
 電車を降りると、自分を呼んでゐる車掌の声が背後でした。私はふと気がついた。あわてて切符を買はずにゐた自分を思ひ出しながら。懐《ふところ》から蝦蟇口《がまぐち》をとり出したのだ。
「貴方にはたしか、三丁目で、十銭頂きました
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