ろいろの興行物があり、小芝居もしていたので、それを時々覗いた。これは若党などに伴われて行ったのである。若党は藩地より連れて来た外、今一人京都で抱えた。それは前の留守居に勤めていた者である。この三人の若党と、一人の仲間と、いずれも浄瑠璃(即ち義太夫)や芝居が好きであったので、よく伴われて行った。落語の寄席にも、度々行った。私が落語を聞馴れたのは、この京都の机を前に置いて木を以て叩く落語によってであった。就中、女義太夫を若党どもが聞くので、私も連れられて行って、始めてここに義太夫を知った。
 なぜ若党どもが容易《たやす》くこういう所へ行けるかというに、その頃京都では、二本さした者は無銭で這入ることが出来たのである。京都には二本ざしが少なかったので、興行者の方でもこの特許をさせた。しかし二本ざしも蒲団や茶の代だけは払った。若党はいつも、『若旦那のお供』といって、私をダシに使って行った。そのうち父がこの事について私に異見をして、藩地に居れば文武の稽古をすべき身で、そんな所へばかり行っていてはいけない、と戒めた。
 こう戒めた父が、役目とはいえ祇園町へ頻りに行くのであるから、とかく家庭が総て上調
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