さて暫く経って、やや落つくと、私も十一歳になっているから、文武修行の場所へ入らねばならなかった。
私の藩は、三代前の藩主が明教館というを設け、これに文武の教授場を総て包括していた。就中学問所(漢学の)が根本になっていて、これには『表講釈』という講釈日があり、月に二回ずつは、士分徒士に至るまで、必ず聴聞に出頭せねばならぬ事になっていた。病気等でも届を出さないで欠席する者は、直ちに罰を受けた。おもなる士分の講釈日には君侯も来て聴かれた。
武芸の方は、弓術が四家、剣術が三家、槍術が三家、馬術が一家、柔術が一家で、これだけ明教館に附属した所に設けられて、各指南した。この師家には人々の望によって、自由にどこへでも入門することが出来た。馬術は木馬の型ばかりを教え、実際のは他の広い場所で教えた。
私はまず学問所へ入門することになった。その時は上下を着て、誰かに伴われて行った。行き着くと、学問所の教官に導かれ、講堂という広い堂へ行って、大きな孔子様の画像を拝し扇子を一対献ずる。これが入門の式であった。
その翌日から素読を教えてもらいに出た。学問所の課程は最初は素読で、まず論語を終ると一等と
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