旧套を守る主義であったので、激しい衝突をした結果、当時目付から側用達という重い役になっていたのを忽ち免ぜられてしまい、側役の礼式という身分で家族を引連れて藩地松山に帰るべき運命になった。これは私の十一歳の時であった。
 父は別に学者ではなかったが、一通り漢籍を読み得た。私は八歳の時から素読をはじめ、論語孟子などを父に授かった。素読のみならず意味を教えてもらった。私はこの漢学に大変興味を持ったので、進みもよく、人に賞められた。或る時父が厠へ上ぼっているのを待ち兼ね、文字を問うためその戸を開けたので、お目玉を喰った事もある。いたずらをする時は『もう本を読まさぬぞ』といって懲戒された事もある。この藩邸内には漢学を授ける所もあったが、私は父のみに学んだ。私はよく『子供らしくもない、学者くさい。』という評を受けた。
 私は豚狩や喧嘩をするよりは読書が好きだった。一つは臆病者であったので外へ出るより内で本を読む方が好きになったのかも知れぬ。その頃の子供の遊びでは、『ねッ木』といって、薪の先を削ったのを土に打込み、次の者がそれへ打当てて土にさし、前のを倒し、倒した木は分捕るという事が流行《はや》った
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