祭典があっても、余り出席せない。この外他の府県にもあるが、我愛媛県にも教育協会というがあって、私は文部省の高等官でいたしまた、以前県の学務に久しくいたという関係で、名誉会員に推薦されている。その後同県の宇和島人で、曾根松太郎氏が「教育界」を金港堂より譲り受けられた際に、愛媛教育協会の東京部というを設けられて、私は此方でも文部省専門学務局長の松浦鎮次郎氏官立盲学校長の町田則文氏と共に副会長となっている。今一つ松山に同郷会というのがあって、青年の指導に任じている、その東京部長というのも私が脊負っている。また寄宿舎の監督こそやめたれ、前にもいった如く、この寄宿舎と給費生との事件に関する世話係というを久松家から嘱托せられて、今もその一員である。
[#改ページ]
二十一
私が前にもいった、麻布笄町への転宅は年齢では、七十一歳であった。七十は杜甫の詩に、『古来稀』ともいっていて、それ以来は古稀の祝と称えて誰れもする事である。しかし私は別に祝いたいという感もなく、また祝うとすると金もいるが、その金もないのでそのままにこの年も終えてしまったのであるが、故子規氏の庵で時々開く、旧友会の連中が
前へ
次へ
全397ページ中376ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング