馬鹿しい事であった。そして改めて百二十石貰ったが、その後の代々は才幹もなかったか、余り役儀も勤めずにいてそして名を出したのは、私の祖父瀬兵衛昶からである。この瀬兵衛は他の役も勤めたが、代官役で、民治の上には功績を立て、即ちその頃の弊として百姓が自ら怠って不作をさせて年貢の軽減を求めるというような事をも、矯正して、それぞれ未進のないようにさせたりあるいは義倉といって村々の共有財産を作って凶歳の準備をさせたりしたので、藩からも度々賞美された。その後廿七年を経て父の代に更に祖父が代官中の功績を追賞されて、若干の金を賜わった事もある。これは私も知っている。この祖父は経書では徂徠学を修め、甲州流の軍学にも達していて、旁ら文章や詩も作っていたので、その遺稿は今も存している。父も久しく藩の枢要に当っていて、参政や権大参事になった事は前にもいった通りである。
 右の如く先祖は、吉利支丹宗の嫌疑で迷惑したにかかわらず、これも前にちょっといったが、私が番町に住んでいた頃、妻や長女は矢島楫女史の誘引で基督信者になった。これは私が例の哲学からの悟りで、婦女子には何らかの宗教心があるがよいと思っていたからだ。け
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