、這入って方々見まわって、とある座敷の前へ来たのでそこへ腰をかけた。すると一人の女が出て来たので、『酒が飲めるか』と聞いて見た。女は『かしこまりました』といって奥へ行き、やがて酒肴を出した。十分に飲食してさて勘定をというと、女は『御勘定には及びませぬ』といった。うまい所もあったものと思いながら、二人は帰って、得々としてこの事を古参に話した。古参は不審を起し、向島にそんな所は無いはずだがといったが、間もなくそれはその頃即ち十一代将軍の大御所様《おおごしょさま》の御愛妾の父なる人の別荘とわかった。この別荘の主人は娘の舌を通じて隠然賞罰の権を握っていた。それで諸大名から油断無くここへ賄賂を送り、常に音問していたのである。勤番者風情でそこへ踏込み、大胆にも飲食をも命じたというのであるから、藩の上下は顔色を失った。『どの藩の者ということを聞かれはしなかったか』と古参が聞くと、『なるほど代物はいただきませぬが御名札をいただきたいといったから、松平隠岐守家来何の某と書いて置いて来た。』との答に、いよいよ騒ぎ立ち、藩侯にもどのような禍がふりかかろうも知れぬと、それからいろいろ評議をして、結局、留守居役
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