るる者に限る例であったのを、文庫のみは主としてまだ名を知られない若手の作でも、よい者は載せることにしたので、新進の青年は多くこの雑誌の下に集って、それが発達して今日の大家となっているものも少くないようだ。この事はこの文庫発行者の山県悌三郎《やまがたていざぶろう》氏の功といってよい。
二十七、八年に亘った日清戦争の時、五百木飄亭氏は兼て医者の開業免許を取っていたので、看護卒となって服役していたが、その以前より、日本新聞の記者を兼ねていたので、それに報ずる戦地の状況が、他の報告よりも特色を帯びていたので多くの読者には歓迎されていた。そんなことからも、また自分に期する所もあったので、子規氏は病身であるにかかわらず、戦地へ行って見たくなって、それを陸羯南氏にも話したが、羯南氏は子規氏の病体を更に悪くする事を気遣って容易に許さなかった。が、再三熱心に需《もと》めるので、終に日本新聞社から特に派遣する事になった。が、金州方面に達した頃もう戦争も終りを告げていたので、この上はせめてもとまだ充分に服従せないで戦争をしている台湾の方面へ行こうと思って、下の関まで帰った時、再び大いに喀血して、とても台湾
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