ていたので、この給費生もやはり寄宿せしめらるる事になった最初の給費生中で後年成立た重《お》もな人では、佃一予氏勝田主計氏正岡子規氏などである。この監督は最初同郷人の服部嘉陳氏であって、私も給費生の始まった頃からその生話掛の一人で、やはり寄宿舎にも関係する事になっていた。その後服部氏は、病気のため帰郷する事になったので、そこで私がその後任となったのである。
また廿二年の頃久松家の御事向につき事件が起り、私はこれに対して意見を陳述する機会を得たので、その以前より出来ていた、御家憲の実施を促がし、その結果として諮問員を東京と松山とに置かれ毎年の経費や重要の事件はこの諮問員に諮問されて後ち施行さるる事になった。而て私もその一員に加わる事になって、これは今日に至るまで継続して勤めている。
そこで文部省の方では廿三年に参事官に任しなお普通学務局の方も兼任していたが、その以前から私は精神衰弱とでもいうものか、事務の調査をする際は能く不眠病に罹る事が始まって、それでも勤めるだけは勤めねば気の済まぬのだから随分と苦しむ事になった。しかのみならず、その頃は大学卒業者も文部へ入って来てなかなか頭の好い者
前へ
次へ
全397ページ中322ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング